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冷凍牛乳箱

インターネット上に展開する音楽レーベルを運営してた、という昔話

  • Posted by: ミッチョイ
  • 2010年8月18日 23:51
  • 日常雑記

若かりしころの思い出を書いてみようと思う。

そう、某巨大掲示板があまり巨大じゃなかった頃で、自分のグローバルIPを知るためにアクセスするあのサイトがまだアングラなサイトとして情報提供を行っていた頃。人々はやたらと串やらクッキー食べ残し注意やらを気にしていた頃で、テレホーダイが輝いていた頃。ネットの海に日本海溝があったころ。サーフィンとか言ってた頃。

僕は思いつきでインターネットを中心に活動するネットレーベルを立ち上げた。
※若気の至り

素敵なウェブサイトをホームページビルダーで作成し(これも以後も基本的に殆ど笑うところ)、ウェブリングに参加し、アクセス向上のために複数掲示板で所属アーティストの募集をかけ、ICQでI SEEK YOUしたりもした結果、日本全国からいくつかのデモテープやらデモMDやらが届いた。

恐れを知らない僕はレーベル代表を名乗り、本物のインディーズレーベルの代表の方とネット上での音楽展開についてメールで意見交換したり、届いたデモテープに対して「うん、まあいいんだけど歌がちょっとやばいよね」とか「バンド名がダメ」とか、まあとにかく偉そうだったと思う。単なるガキなのに。

で、選定した結果として数組のアーチストを集めた。当時はCD-Rすら希少というか高価だったので、所属アーチryのデモ音源からハムノイズやらヒスノイズやらを取り除いたり波形編集なんちゃらしたあげくCD-Rに焼いてあげたりした。いやお金もらって焼いてた。んでネットで販売するわけです。ちなみに視聴はRealPlayerでできるのよ。Y!のインデックスに登録されただけで歓喜してた。確かにアクセス数は急増したけれど。

そういえば1人だけ、うちで焼いたCD-Rをデモとして配って徳間ジャパンのレーベルからリリースした人もいたけど、あの人元気かなあ。

当時は楽天なんちゃらも祐天寺にある小さい会社でしかなかったし、ネットでモノを買うなんてのが一般的じゃなかったけれど、普通にCDが売れてたのが今思えば不思議だと思うのと同時に、ああ、あれが僕の初めての起業だったんだな、と思う。

若いってのは恐れを知らない。素晴らしいことだ。

でもまあ儲かるほどでもなかった。そもそもCD焼くのとCDのレーベル面印刷するのが超めんどい。

その後レーベルはどうしたかというと、全国のCD-Rドライブ保持者を生産工場とすることで生産力を倍増する計画を実行しようとしつつも、自分自身のバンドに打ち込むのが楽しくなってしまい代表でありながら放置。悪名高き光○信(笑うところ)のレンタルサーバ@月1万円を解約し、希少だった独自ドメインともさよならした。閉鎖です。

そうそう、光通○のレンタルサーバは契約するときにラウンダーの女性営業がわざわざ来た。そういう営業ルールになってるとかなんとかで。実家に住んでたから実家の部屋にね。そこで契約ですよ。あれは今思えばすごいことですよ。

あ、それともうひとつ。レーベルやめるときに所属してた人に「やめるよー」て伝えずに閉鎖しちゃった。みなさん、ごめんなさいね。

富士登山の写真を追加してみたよ

  • Posted by: ミッチョイ
  • 2010年8月14日 00:14
  • 日常雑記

先日のエントリに富士登山の写真を追加してみた。宜しければご覧くださいな。

私信みたいなもの

  • Posted by: ミッチョイ
  • 2010年8月11日 00:55
  • 日常雑記

最近の自分がどうかといえば「欲」がなくなってきたように思う。
たとえば、

たくさんお金がほしいとか、
長生きしたいとか、
美女をGETしたいとか、
高級で美味しいご飯が食べたいとか、
明け方まで酒を飲み明かしたいとか、
幸せな家庭を築きたいとか、
我が子がほしいとか、
有名になりたいとか、
歴史に名を残したいとか、

そういうものがゼロではないにしろゼロに向かい始めている、薄らえていっている気がする。前は喉から手が出るほどの渇望だったのに、もうそんなことはない。

その理由は厳密にはわからない。でも年齢的なものが大きいんじゃないかとも思う。僕には過去にたくさんのチャンスがあったように思え、そして僕はそれらを自らふいにしたようにも思える。それが因果であろうとなかろうと、過ぎ去った時間を取り戻すこともできないし、人はどんどん歳をとる。

悔いのない人生を送っている人なんて、本当にいるのかな。
悔いがなければ、その逆の満足や喜びもないんじゃないだろうかな。

パワーがなくなったわけじゃない。何もかもがどうでもよくなったのか?といえば、そうでもない。一生涯で実現したいものは以前よりは具体的に見えてきたし、それに向かうモチベーションは高い。自分の役割が何なのかについても自覚できるようになり、前に増して自分自身を知ることができている。

そう書いてみて至る結論。

良く言えば、自分自身の在り様をある程度は制御できるようになり、心穏やかになった。
悪く言えば、つまらない男になった(んじゃないか?)。

若さってのは、盲目な一心不乱さだよなあ。
歳をとると目が見えてくるから、一心不乱になれるものが途端に減る。

だから、一心不乱に打ち込める「これだ!」というものを早々に見つけないと、生きる屍になってしまう気がする。

焦燥感ですかね。

独り言かつ私信でした。

かなり久しぶりに富士山に登頂してみた

日本一の高さを誇る富士山。といっても登山初心者にも夏山の富士山は易しい。

そんな富士山にはじめて登ったのは小学校のころだった。八合目で泊まりご来光を見たのだけれど、ご来光よりも星空が美しかったのを覚えている。

齢30を超え、中年の仲間入りを果たそうとしている自分。いやもうすでに果たしているのかな。この夏はなんだか猛烈に「なにか辛いことに挑戦しなければならない」という感覚に襲われていて、その結果として富士山に登ることにした。

辛いことに挑戦しなければならない。そんな風に思う理由は、辛さを乗り超えないと自分は成長できないと思い込んでいるからだと思う。考えてみればこれまでもたくさんの辛いことがあったからこそ、今の自分がいるようにも思うし、これからの自分を作っていくのに必要なことだから。日々の生活の中で特段辛いイベントが起こらないのであれば、自主的に辛いイベントを起こすこともひとつの努力じゃないのかな、と。

そんな思いで富士山はバスを予約した当日に登ることにした。一応それなりの山に登るんだからとちゃんと準備はしていた。その前の週には陣馬山から高尾山へ7時間かけて縦走もしたし、ザックやウェア、ヘッドランプもそろえたし、登山靴とレインウェアは友人に借りた。

辛さを求める。でも辛すぎると乗り越えられない。自分に見合った適度な辛さ。それがナイトハイク。夜22時に登り始め、8合目もしくは山頂でご来光を見て下山するという、いわば日帰りコースといえるもので、宿泊はしない。それに挑戦することにした。一緒に登りたい人も登ってくれそうな人もいないし誰かがいると甘えが出そうだったので一人で。

22時ころに5合目着。30分ほどこれまでやったことないくらいの柔軟体操をして身体を馴らす。22時30分ころに登山開始。

5~6合目は下ったり上ったりの道でそれほど険しくない。初装着のヘッドランプの調子を確かめつつ、自分でも遅すぎると思うくらいのゆっくりペースで一歩づつ踏み出す。ヘッドランプは思っていた以上に快適で、真っ暗ながら足場の不安は感じられない。

6~7合目で濃霧が発生する。頭の上からライトを照らしても霧にライトが反射する関係で足元が見難い状態。だからライトを首にかけてみた。足元が途端に見やすくなる。どんなときも試行錯誤って大事だな、と。

7合目。このあたりで明らかに酸素が薄いなってことを身体が感じ始める。呼吸が乱れると酸欠が起こる。酸欠は高山病を引き起こすかもしれない。なんて思いながら常に深呼吸しながら進む。空気がおいしい。酸素が薄い。空気は美味い。酸素も美味い。自然を身体で感じるってのはこういうことだなあ、なんて考えながら淡々と進む。

7合目~8合目は岩がゴツゴツしていてロックライクミングとまではいかないものの、なかなかハード。

8合目。極寒にて持参した衣類、レインウェアをフル装備する。7合目くらいまでで結構汗をかいたので、それが冷えてますます身体を冷やす。最初のほうは若干寒くても薄着で登り続けたほうが後々寒くなくなるんだなあと少し後悔する。山小屋できつねうどんを食べ、コーヒーを飲む。身体が温まる。

この頃、時間はam3:30くらい。中途半端に登る途中でご来光を見るよりも、ここで見たほうが良いなと思いご来光を待つことに。自分の目が悪くなったからなのか、そらが曇っているからなのか、それとも心が曇っているからなのかわからないが、小学生時代に見たような満天の星空は広がっていなかった。まあ、たぶん目が悪くなってるから。

Mount Fuji

そしてam4:50前後にご来光。雲がまるで海原のように広がり、山並みがまるで島のよう。(見たことがないけれど)天国の風景。そんな中に差し込む太陽の光。輝き。素晴らしいとしか表現のしようがない世界。大自然の偉大さと、その中にいる小さな自分の存在を実感する。登ってよかったと感じる瞬間でもある。

その後写真とってくださいと2回ほど声をかけられ、逆行だからフラッシュたいたほうがいいですよとか言いながら撮り、結構きれいに撮れて喜んでもらえたりしてウキウキしながら登り続ける。

Mount Fuji

8合目~山頂までは登山渋滞。夜間登頂に備えて眠ってなかったから眠さがピークに。

Mount Fuji

山頂についたのが朝7時。

Mount Fuji

山頂の山小屋でカレーライスを朝食に。山頂でカレーライスを食べるのがカレーマニアとしての目標でもあったので。味はまあ普通。

twitterで「富士山頂なう」とかつぶやいたら同僚が「うちの妹も登っているはずですよ」と。まさかねー、と思いながら周りを見回したら彼の妹さんらしき人がいる。といっても彼の結婚式で一度見かけたくらいだからうすら覚えで間違いかもしれない。

せっかくなので声をかけてみたら本人でした。奇遇にお互い驚く。いや自分はよくあることなのでさして驚かなかったけれど驚くフリをしてみる。ドラマならば恋に落ちるケース。現実なのでそんなことは起こらない。

Mount Fuji

Mount Fuji

Mount Fuji

その他頂上からは実家に電話したくらいで、バスの時間も考えて早々に下山。4時間弱で5合目まで降りてきたのでバスを2時間ほど待つことになったけれど、さすがに眠かったこともあり5号目で仮眠ができたので満足。河口湖畔の日帰り温泉に入って帰宅。

なんていう具合の富士登山だった。富士登山は足腰の疲れよりも、酸素の薄さであったり、気温の低さであったり、そういうものとの戦いで、普段の登山に比べたらやはり生死により近いところで戦えるような気がするし、それなりに辛い。でも登山道が整備されていて、登りやすい山で、初心者向けの山だとも思うし、なによりご来光は美しく、山頂に到達したときの達成感は大きい。

この夏にもう一度くらい登りたいなあ。

連載:起業した頃を振り返ってみた part.1 - 起業に至るその経緯 -

  • Posted by: ミッチョイ
  • 2010年6月27日 23:47
  • 日常雑記

 なにか大きな出来事があったわけでもないけれど、プライベートな面において最近色々なこと、本当に様々なことが契機を迎えているように思う。そしてそんな中、凡そ4年弱ほどになるのかな、可能な限り沈黙を守り続け、そして自分の中でも若干「無かったこと」にしている「ある事柄」について、そろそろ見直す時期に来ているんじゃないだろうか、と、ふと思う「出来事」があった。

 その「出来事」についてはここでは触れずに、私が沈黙を守り続けている「ある事柄」について今後しばらくの間、見直し、ブログにまとめてみようと思う。

 それは私の人生において重要な転機のひとつであった事柄、「起業」と「廃業」にまつわることなんだ。

これまで見直しをかけなかった理由

 過去を思い出すことはよくあることであるし、飲みの席で軽くその件に触れたり、誰かに聞かれて答える、なんてことはあったので、厳密に言えば沈黙を守るなんて格好いい状態じゃない。けれど、あまり進んで話したくないし、また考えたくない事柄であったのは事実。汚点とまではいかずとも負け戦でもあり、決して人様に誇れるようなことではなかったからそもそも誰かに話したくもなかったし(だから元社長だなんて履歴書にも書かなかった・・・あ、これは経歴詐称かな)、廃業後はトランスナショナル企業としてそれなりに成長を続けている某社の従業員へとサラリーマン成りしたという経緯もあり、過去を振り返るよりは最低でも当面3年間以上はしっかりと Employee としての勤めに徹し、この会社の仕事をやり抜いて、入社した大きな理由の一つであった「グローバル経営のHow to」や「組織論」を学びたい(盗みたい)と考えていたという理由がある。それが学べたかどうかは別として、ね。

 他にもこの企業で学びたいことがたくさんあったから(一人の人間として非常に興味深い創業者を抱える企業なのです)、あえて過去を振り返る余裕がなかった、なんてのも理由。

 ここまではこれで良かったと思っていて、全く後悔したことはない。そして、今から過去を振り返って分析してみても全然遅くないと考えている。いやむしろ、今は過去を振り返って分析したい、もっと言えば分析しなければ「次のステップはない」という気持ちで一杯になっている。

 すでに1点ビハインドで前半戦が終了して、ハーフタイムがこの3年間で、ついさっき後半戦がキックオフした感じ。

 それは焦燥感なのか、何なのか。

 ああ、そうか、そんな風に思うだなんて、私の人生は案外短いのかもしれないなあ。

そもそも当時起業した理由を思い出してみる

 当時、自分はなにゆえ起業したのかを思い出してみれば、そこにはたくさんの「想い」があったように思う。今考えてみれば、それらは誰か著名な経営者の伝記に書かれているような、決して素晴らしい「想い」や「志」と言えるようなものではない。けれど、それが自分を未知の領域に突き動かす原動力であったのは紛れもない事実。

 今振り返ってみれば、私は私自身の様々な想いに、独りよがりに突き動かされていたんだ。

  • 理由その1「自分の力を試したかったから」

 当時ITベンチャーで働いていた頃の私の収入は、今の収入の約2倍程度にあたる。所得税と住民税がかなりのものだったから、最終的に倍増から激減した次の年の支払いがとんでもないことになったんだ。(税金は前年度の収入がベースになるので)

 で、当時はといえば、まず月にxx万円づつ貯金、その他家賃などを差し引いても全然余る。余ったお金は基本的に衝動買いで消え(かといって車とか大きな買い物をしていたわけじゃないけれど、意味のないものばかり衝動買いしていた)、夜中まで飲み歩き、コストパフォーマンスが高いとはいえない「高くて美味しいもの」を食べ、意味もなく人に奢り、さして知識も得ないままデイトレをやりつつ中国株などにも手を出し(でも信用取引はやらなかった)、投信もやりつつ、外貨にも手を出してみたり。一時期プラスだったけれど、トータルではマイナス。

 無茶苦茶な状態だった。誰かの成功談や、いわゆる「お金持ちになれる本」みたいのに流されまくり、それを実践してみるつもりが実際は損をしていて、まさにお金を持ったことがない人が持つとこうなるんですよ、を地で行くような、アホの典型例と化していた。「就職氷河期世代だけどバブル時代を味わったらこうなってしまったでござる」という自伝が書けるレベルだと思うから、いずれ書いてみることにする。

 このような収入を得ていたその背景。これはそれなりの理由とカラクリで得られていたお金であって、自分の能力、実力がそっくりそのまま反映された収入であった、と言い切れるようなものではない。たくさんの運と機会に恵まれていたこと、それと多い収入分だけ他の人以上に過酷に働いていただけの話。24時間仕事をすれば、2倍もらえるのは当たり前(むしろ3倍働いているんだから少ない)。寝ていてもお金が入ってくるけれど、呼び出されたらオンサイト。そんな仕組みの上に、特技の社内調整とトップダウンと勤勉さを駆使し、私は同僚や先輩を蹴落として、強欲に強引に居座ることに成功した。

 でも若い自分は勘違いした。この年齢でこれだけの収入を得ている自分の能力は、恐らく同年代の中でも比較的高いほうにあるに違いないよ、と。いや、むしろ年代に関わらず、自分は小さな勝ち組に違いない、と。

 なんだ、金稼ぐのなんて簡単なことじゃないか。であれば誰の力にも頼らずに、会社の看板など背負わずに、自分自身の力だけで十分に稼いで生きていけるはずだ。世の中は、至極単純で、簡単だ。必死にならなくても、それなりの仕組みがあれば金なんて勝手に入ってくる。

 そして、自分はそれを作ることができる実力を持っている。負けるはずがない。

 冷静さを失い、実力と収入の乖離に気がつかない程の、自らの能力に対する過信。これが起業をした1つめの理由。

  • 理由その2「こいつができるなら俺にもできるはず」

 2つめの理由は1つめの理由と微妙にリンクしている。

 ある日、私が働いていたITベンチャーS社(当時年商10億円程度のSIer)は、また別のITベンチャーE社(当時年商6億円程度、業務内容は後述)に買収された。小が大を飲み込む形。いや、非公開企業だったので、買収されたというのは正しくないかもしれない。S社の経営に疲れきったCEOが、下々には内密に唐突にE社に自社株を譲渡したのだ。
※そのあたり経緯・理由については諸説あるものの未だに真相が不明

 ここからが問題で、このE社は2000年前後のITバブル期に創業されたITベンチャーで、その当時のITベンチャーらしい「キナ臭さ」を持っていた。さしてマネタイズできていなそうなWebサービスを事業の顔として前面に押し出し、他の事業展開はといえばアウトバウンド系のコールセンターや大手家電販売店へのスタッフ出し等。売上げ比率的には後者こそがこのE社の本業で、ITはおまけみたいなものなんだけれど、彼らにはITベンチャー色を前面に押し出す理由があった。

 それは社長がいわゆる「学生起業家」あがりで、年齢も私の1つ下だったということ。買収元は、超若手起業家、というフレーズで売り出し中の男が社長だったんだ。

 時はおりしもライブドア株が立て続けのM&Aとサプライズ、株式分割により暴騰していた頃で、サイバーエージェントの藤田さんの「渋谷で働く社長の告白」がバカ売れしていた時代。既に若手IT起業家が億万長者になるケースは珍しいものではなかったものの、やはりE社社長のはその年齢から、若手起業家として注目を集めていた・・・いやこれも正しく言えば間違いで、色々な仕掛けがあり、彼は「注目を集めている風」に仕立てられていた。数年後にIPOが控えていたから、キャピタルゲイン狙いのお歴々に祭り上げられていたんだと思う。

 そんな超若手起業家のSさん。彼は人間としてはいいヤツだったけれど、自分はそれとは違う感情を抱いた。

「え、こんなアホヅラで一生懸命社長ぶっている胡散臭いヤツが社長だって?なら自分も社長になって成功するのは簡単だ」

 (単なる傀儡かもしれないが)彼のように振舞いたいと願う野心と「こいつに出来て俺にできないはずがない」という過信からくる猛烈な闘争本能、競争心、嫉妬、疑念・・・。

 こんなものに、こんな巡りあわせに、私は追い詰められた気がした。

  • 理由その3「会社勤めが馬鹿馬鹿しくなった」

 中間で搾取されるコストがあほらしく感じてしまったから。基本的には、企業体が大きくなればなるほどこの中間コストも大きくなる。案件規模とコスト部門の大きさが見合っているならまだしも、見合っていなかった。単純に、それが見合わない以上は最終的な見入り(収入)は減る。それが分からないジャブジャブ系な人が上のほうでたくさん働いていた。また具体的な方向性も示さず、下の人間に投げっぱなしジャーマンを食らわせながら、自分は悠々自適に暇そうに定時に帰る上司様。ああ、なぜにこの人たちは全体最適を考えられないのか。自分さえ良ければそれでいいのか。

「雁首そろえやがって。自分ならこんな組織は作らない。お前らの役は俺にも出来る。だから俺が体現してやる。」

 旧態依然とした組織への不満。まるで反抗期の少年みたいな年上全般に対する不信感。自分なら出来るという過信。これは理由1とリンクしているかもしれない。


 他にもたくさんの理由があったと思う。社会的信念とは程遠い「欲」が。

 「自らを省みることを知らない、若さゆえの過信」

 そんな風に言ってしまえばそれだけのこと。でも自分は、その自分の本質を持って、とにかく社会に挑んでみたい気持ちがあった。だから、

「思いつきで飛べばいいじゃん」

 そんな軽い気持ちで、私は、目をつぶりながら飛んでみることにしたのだった。

ヨーロッパユニバーサリスIIIプレイレポ - サムライジャパン編 vol.2

前回の続きですよ。

1463年7月18日~ 天心天皇(行政:8 軍事:6 外交:5)の時代

1469年5月 マカッサルに侵略開始

南方資源の確保!とかわけのわからないことを言いながらマカッサルに宣戦布告し進軍開始。マカッサルの同盟国であるブルネイ、スールーとも交戦状態になる。

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8月にマカッサルを占領。併合すると世界中のスンニ派に恨まれちゃうかもとか怖いこと言われたので和平交渉を行い、マカッサルを強制的に属国化させる。

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ついでに賠償金50ダカットを支払ってもらうことにした。マカッサルは当然この交渉を受け入れることに。ひどいことしてるなあ。残りはブルネイとスールーだ。

といいながらブルネイに上陸したら大軍にやられて敗走。しばらく回復のため待機。その後1472年10月にスールーを強襲、属国化と賠償金50ダカットを入手。

1475年2月 ブルネイ全土を占領そして属国化

ブルネイ全土を占領するも属国化は拒否される。かくなるうえは残存兵の殲滅じゃ!といいながらかなりの兵力を削って再度交渉したら属国化OKだって。

ヨーロッパユニバーサリスIIIプレイレポ - サムライジャパン編 vol.1

スウェーデンのゲーム会社で「Paradox Interactive」という会社がある。Hearts of IronやVictoriaといった、世界から1つの国家を選んで、ある特定の時代をプレイできるゲームを精力的に開発している会社なんだ。

その当時の国力をそれなりに反映していて、弱小国家はずっと弱小国だし、いや、そうでもないといえばそうでもないし、強国は世界征服を目論むことができたりもするし、歴史の「IF」を体験できる。

今現在、歴史シミュレーションゲームを開発している会社で最も勢いがあり、面白いゲームを開発している会社といっても過言じゃないかなあ。

今回は、そんなParadox Interactiveが2007年にリリースした「ヨーロッパユニバーサリスiii」をやってみることにした。(ずいぶん前にやったけれどやり方すら忘れている状態)

国家は我らが日本を選択。時は1453年(享徳2 年/皇紀2113年)。この頃のヨーロッパの出来事としてはコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡。日本では足利義政が室町幕府第8代将軍だった頃、つまり室町時代ですね。

1453年5月~ 後花園天皇(行政:3 軍事:3 外交:3)の時代

周りの国の様子を見てみると、琉球が明の属国になっている。琉球はチャイナよりもサムライジャパンの庇護に入れたほうが入れたほうが良さそうな気もする。明が怖いけれど、とりあえず片付けてしまおう。

1453年6月 遠方の国に宣戦布告

戦争税が欲しいためにチャガタイに宣戦布告。同時にシビーリとも交戦状態に。まあ交戦の可能性すらない遠方の国からいきなり宣戦布告されたらびっくりだよね。

1453年9月 琉球に宣戦布告

さして大義名分もないまま琉球に宣戦布告し、上陸し戦闘を開始。琉球軍1,000に対してこちらは騎兵2,000、歩兵3,000。

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あっさりと勝利。

琉球に宣戦布告したことにより、当然、琉球の宗主国だった明とも交戦状態になってしまった。かの国と全面的に戦うほど今のサムライジャパンには国力がないでござるよ。

その後琉球を狙う明軍などと複数回交戦。侵略してくる際は弱小な海軍でしか攻めて来ないため、多くの船団を撃破することに成功した。

1453年6月28日~ 定篤天皇(行政:6 軍事:4 外交8)の時代

後花園天皇が崩御され、定篤なる天皇が即位。完全にIFな世界が始まった感がある。定篤天皇は外交値が高めだが軍事値は低め。

1454年11月 朝鮮と同盟を締結

 

明と交戦中に仲間が欲しいなあ、と思っていたため朝鮮と婚姻関係を結ぶ。その後すぐに同盟を提案され、これを承諾。日朝同盟締結の日が来たのです。かの国が好きとか嫌いとか、そういうのは関係なしにですよ。

以後、沖縄沖や天草沖での数回の会戦や、唐突に肥前や豊後に上陸してくる明の軍を各個に撃破するなど、本土防衛に終始することに・・・。

明を適度に打ち砕き、琉球との主従関係をなくして日本が琉球を併合することを当面の目標にする。痛みわけの和平ばかり申し込んでくる明。とりあえず無視。

1458年2月 台湾に上陸

明との戦争も埒が明かない状態。だけれど国土を広げたい野心はあるので、どこの国にも植民化されていない台湾に6,000名ほど上陸させてみた。

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先住民との戦いでは多くの命を落とすものの、士気で勝る日本軍の勝利にございます。その後原住民と数回戦闘を行ったうえで殖民のために入植者を送り込む。同年11月に台湾の植民地化が成功した。

1463年7月18日~ 天心天皇(行政:8 軍事:6 外交:5)の時代

明のガレー船団60隻に制海権を奪われつつあるのがちょっと。海軍増強は日本の命題なのね。

1464年7月 明と和平

で、今更ながら琉球にこだわって明とにらみ合いを続けるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。もっと南方資源をごっそりいただいたほうが特が多いし、明なんてあとで叩けばいいじゃないすか。ということで痛みわけにて和平することにした。琉球とも休戦状態に入るため、琉球から部隊を撤退。

1465年1月 マラッカに宣戦布告

お金が欲しいんだよね。だからマラッカ行かなきゃ。なんて具合に宣戦布告した。日本&朝鮮連合軍vsマラッカ&アチェ&ブルネイ連合軍という構図に。太平洋戦争みたいな・・・。パハンから入り、マラッカを目指す。

1466年10月 マラッカと和平

深入りしたら連合軍にやられそうな気配があったので和平申し入れ。ジョホールとバハンを割譲してもらった。さして価値もない土地であるのは間違いないけれど、南方に出来た足がかりってことにしておくよ。

久々に感動した「はやぶさ」のこと

幾度の困難を越えて、そして数々のミッションを達成して地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」。開発に携わった方も、運用に携わった方も本当にすばらしい成果だと思います。お疲れ様でした。

私はといえば、まずは大気圏突入直前に、最後の踏ん張りで地球を撮影できていた「はやぶさ」にもう感動してしまってたまらない。

それで「はやぶさ」について色々なサイトを見て、"サンプラ担当、SV、回収隊・方探班本部、科学・輸送班 矢野 創さん"のはやぶさに宛てたメッセージを読んで、、、、うわぁ!これで二度目の感動ですよ。

本当に感動的な、素晴らしいメッセージですので、是非読んでみてくださいな。

ついでに見てきた「浜川砲台跡」

大井埠頭でBBQをやることになり、運動がてら五反田界隈から歩いて向かうついでに京急の立会川駅界隈を通った。

「立会川」といえば僕にとっても馴染みが深い川で、なぜかというとうちの実家の前が立会川だったから。でも実家の前の立会川は暗渠化されて遊歩道になっていたので、「川」としての姿は見たことがないんだなこれが。

立会川駅あたりは元々土佐藩の下屋敷があったところで、江戸の千葉道場に剣術修行に来ていた頃の若き日の坂本龍馬が黒船来航時に警護にあたった、と言われているところ。だから駅前の公園には坂本龍馬像があったりする。

坂本龍馬像

龍馬伝ブームにあやかって、街は大々的に龍馬ゆかりの地をアピール。実際に観光に来ている人も多かった。

近年分かったことらしいけれど、土佐藩は黒船への砲撃用(といっても飛距離100mくらいしかないみたい)に浜川砲台を構築している。それがこれ。

浜川砲台跡

跡といっても工事の際に出土した礎石を集めたものなんだ。立会川商店街の方が「ぜんぜん大したことないけれど見ていってくださいね~」って言ってた通り、この石だけ見ればたいしたことないかもしれない。でも僕は単に記念碑目当てなわけでもない(ついでだけど)。あの龍馬が歩いた地であるとか、当時を想像しながら歩くとまあなかなか良いところだなぁと思った次第にございます。

史跡ってどこもそういうものじゃないかな。当時の情景を思い浮かべ、想像し、その想いに耽る場所。つまり妄想スポットね。

沙摩柯日記 - 三国志10プレイレポ part.4

  • Posted by: ミッチョイ
  • 2010年6月11日 22:33
  • 三国志10

力の均衡からこう着状態に陥った中原。霊山巡りを止め、脱ニートを果たし、四兄弟の末っ子にもなった沙摩柯(涼州武威在住の39歳・独身)が今、再び戦乱を生み出していく(かもしれない)。

206年4月 沙摩柯、夏侯淵軍を誘引しこれを撃破す

狄道にいつの間にか砦を構築していた曹操軍を強襲。その後すぐに夏侯淵軍が援軍にて到着した。その数およそ8万。一方、狄道砦を強襲した沙摩柯軍は6万、かつ武将は沙摩柯のみという状態。これは勝てませんわ~、と、なんの攻撃もせずに即時退却する。

するとそれにつられて武威まで進軍する夏侯淵。ふふ、まんまと策にかかりましたね、と、武威の10万の馬騰軍が迎え撃ち、これを楽々撃破。馬騰軍も無傷とはいかなかったものの、天水を拠点とする夏侯淵軍は大打撃を受けた。さらに、この戦いで夏侯淵軍の婁圭(ろうけい)は馬騰軍の捕虜となり、その後馬騰軍に投降。策士といえる人材を欠く馬騰軍にとって、婁圭(知力88)は貴重な戦力となったのでございます。

その後、狄道砦を破壊後、飛び地であり義兄関羽(ひげ)が守備する廬江への異動を進言し、沙摩柯はその居を廬江へと移したのであった。

208年4月 幾度の曹操軍の猛攻からひたすら廬江を守る

典韋と一騎打ちしたりもした。

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豊富な資源と人材を背景に、倒しても倒しても何度でも攻めてくる曹操軍にはやはりUSAを感じてしまうんだよね。戦ばかりして経験はどんどん増えるけれど、本当にこれでいいのか人生・・・と思う日々。もう42歳だし、なにか打開策打たないと死んでしまいますよ。それにしても沙摩柯さんは誘引にひっかかって猛進し過ぎです。

208年6月 廬江を奪われ沙摩柯は転職を考える

ヒャッハー。寿春で情報調査とかやってる間に廬江が曹操軍に攻め落とされちゃったよ。

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そろそろこの会社もつぶれそうなので転職を考えたほうが良いんじゃないかって思ってきた。毎日疲弊するような仕事しかしていないし。

209年7月 退職願を提出

この会社、つぶれそうだから一身上の都合により退職させていただくことにした。社長は嫌いじゃないし社内の雰囲気も良いんだけれど、なんか夢がもてないから。義兄ひげ男が「お前がいないと張り合いがない」とか退職を引き止めに来たけれど・・・

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ひげがこう言うんだったら仕方ない。残ってやらなくもないぞ。

215年 その後の展開

なんだかんだ言って馬騰軍に残ることにした。馬騰勢は曹操、劉璋の所領のいくつかを切り取り、沙摩柯は太守、そして都督に任命されるに至る。だがこの時、曹操はかなりの南征を進めており、劉表亡き後を継ぎ荊州に覇を微妙に唱えていた劉琦勢はいまや滅亡寸前。

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蜀を切り取り曹操勢に対抗するか、このまま時代に飲み込まれていくか・・・どうなりますかねぇ。つづく、かも。

注)『三国志X』に関わる著作権、その他一切の知的財産権は、株式会社コーエーに帰属します。

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