無駄こそすべて

いまは昔、とある渋谷のベンチャー企業を立ち上げた学生起業家さんがいて、その人はその当時に少し流行っていた社長ブログとかいうろくでもない雑文を書いては社員に読ませていたりしたわけなんだけど、その御仁の唯一のまともな記事のタイトルが「無駄こそすべて」だった。

無駄こそ全てってなんだよって感じだが、それはもうその言葉の通りなんである。

人間、齢を重ねると知恵が増すこととともに、気力・体力の減退もあって、無駄な行動というものをしなくなってくるのだ。

例えば買い物に行くにしても、まず何を買うかを決めてから出掛けるようになる。そもそも欲しいものが即日で手に入らなくてよければ、ネットで買うという選択をする。旅行するにしても緻密な計画を立てるようになるし、翌日を考えて泥酔するまで飲まなくなる。ギャンブルのような、一定の知識や経験と運がないと勝てない勝負をやらなくなる。投資信託は買うが、1円の値動きに一喜一憂するデイトレなどしなくなる。

そう、単純に人としての成長によって、目的意識を持って行動に移すという基本が身についてくるだけなのだが、それは同時に自分の思考、行動などを緩やかに制限し、視野を狭めることにつながっていくのだと思う。静かに死にゆくことと同じだ。

だからこそ今あのポンコツかもしれなかった渋谷の学生起業家で、年商10億くらいのときに負債が20億あって、倒産のゴタゴタ後にはひっそりと田舎に引っ越してオンラインショップをやりコピー品の傘を販売して逮捕されたりしていたあの彼の「無駄こそすべて」という言が、意味を帯びてくるのだ。

あえて無策、無駄、無形をもってコトにあたることで、自分だけでは発見し得なかった新たな発見をして、視野を広げ、人間としてより成熟し、自らの人生の終焉には「あーたのしかった、これでオシマイ」と言えるようになるのだ。

私は以上の理由をもって、プレステ5の購入に関する家庭内稟議の承認を得るつもりだが、如何でしょうか。忌憚なきご意見を賜れれば幸いにございます。何卒宜しくお願い申し上げます。

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