城攻め:飫肥城

飫肥城は言わずもがな、島津氏と長い期間争い合っていた伊東氏の居城である。

一度は島津氏に追放された伊東氏だが、豊臣時代に復権している。島津氏への抑えとして置かれ続けたのであろうことは、容易に想像できる。いや調べていないので真相はわからないけども。

城としての特徴は、飫肥石と呼ばれる硬くて加工しやすい石が石垣に用いられていることだ。

飫肥石は通常石垣に用いられる石とは異なり、溶結凝灰岩である。溶結凝灰岩は軽石などの白い岩片がレンズ状に引き伸ばされているのが特徴とのことで、石垣をよくみてみると、白っぽい点々がいくつかみられる。

山に城を配し、河川で囲われたような平地に武家屋敷が立ち並ぶ構えは、戦果と自然災害を逃れている飫肥の街に、いまもなお残されている。いわゆる古い街並みであり、小京都だ。素人目に見ても、至極築城するのに適した土地で、当時はなお美しかったことであろう。

城攻め:唐津城

続日本100名城の旅18/100城目。福岡に仕事に行くついでに。

知らなかったんだが、福岡を中心に西鉄バス網がかなり充実しており、唐津には電車で行くよりも、天神のバスターミナルから高速バス「からつ号」で向かった方が楽だった。ゆえに往復ともにバス移動。

唐津城自体は模擬天守であり、そのものに対しては何の感慨深さもないのだが、資料館としては見る価値のあるものも多いし、何より天守(模擬)から唐津湾の眺めがとても美しい。これまた後で知ったことだが、日本景観100選にも選出されているとのことだった。眺めていて本当に飽きがこない景色。

穏やかでとても静かな海は、潮騒という言葉ではなく、凪とでも言うべきだろうか。城の周囲の砂浜も大変静かで、あまりの静かさにキーンという音が聞こえてくる様な、とても落ち着く場所だった。

唐津の町も、良い。唐津には有名な「唐津くんち」があるし、唐津焼もあり、博多からのアクセスもよい。街自体は古い町並みだが、それらの文化、アクセスの良さが、今もなお街を廃れさせない要素として、活きているのだろう。とかく大きな祭りを行うことは、街を活性化するために必要なことなのかも知れない。

城は模擬天守だが、平山城ながら海に面していて、海城とも言える。縄張り・遺構が複数残る。あとは斜めに登るエレベーターがユニーク。景色の良いところなので、気分転換をしたい方には是非オススメしたい城だった。模擬天守だけど。

城攻め:久留米城

有馬氏の居城だった久留米城は、この界隈の中でも立派な石垣を残している城であり、見所はもちろん石垣なのだ。

全国にある城は、廃藩置県後の経緯から、公園として整備されたり、公共施設になったり、軍事拠点として継続利用されたり、動物園がつくられたりと、今となってはさまざまな形態となっているが、この城は藩祖を祭神とする神社として今に残っている。

神社のパターンも非常に多く、有名なのは米沢の上杉神社や、躑躅ヶ崎館の跡地に作られた武田神社だろう。かつての城域内に神社が創られ、かつての城の主人が祭神となっているケースは多いのだ。

久留米はといえば、ブリヂストン創業者の出身地とのことで、久留米城のかつての城域内にはブリヂストン久留米工場がある。城に続く道はブリヂストン通りと名付けられていて、ブリヂストンが切り開き、市に寄贈した道らしい。ゴムタイヤの匂いが漂っている。

城攻め:佐賀城

佐賀は鍋島氏のお膝元。

鍋島といえば、戦国武将の鍋島直茂が著名であるが、鍋島藩こと佐賀藩は幕末には日本初の反射炉、すなわち現在でいうところの製鉄所を建設したり、科学技術振興の点において他藩に抜きん出た存在であったようだ。長崎に近く、幕府よりその直轄領であった長崎の守備を任されていたことが、西欧の先進技術を取り入れることに優位に働いたのだと思われる。

明治政府では薩長のようにリードはできなかったが、官軍側で維新を迎えた他藩と同じように、城の威容を現在に残している。見所は現存する天守台などの石垣のほか、広大な城域内に築かれた本丸御殿跡であり、今はその一部が再建されていて、幕末期には圧倒的な広さであったことが伺える。

言ってしまえば本丸御殿の多くはめちゃくちゃ広い平屋であるのだが、かつては藩主の執務の場でもあり、住居としても機能していたという点では、天守のそれとは全く位置付けの異なるものである。

城の面白さの一つには、軍事拠点としての機能を保ちつつ、時代によりその活用スタイルが大きく変わってくるという点にあって、その点については復元された御殿を持つ城ではよく体感できるため、実は本丸御殿は、復元天守以上に体験スポットとしての価値があるんじゃないかとさえ思う。

佐賀にはバルーン、吉野ヶ里遺跡、唐津、名護屋城など他にも見所はあるが、唐津城界隈は幕末期のアピールがやや強く残り、また、長崎に続くシュガーロードの中継点であった名残からも、和菓子屋が多くて面白い。

思ってみれば、どんなものを見ても面白いと感じる、というのは、教養の有無が関わっている。教えを養う、学ぶということは、多角的な視点を身につけることで、人生を豊かにすることにつながる。

なにがいいたいかといえば、歴史の深い佐賀には見所が満載ということです。行ってみなはれ。

城攻め:吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡の名前くらいは、お城に興味がない方々でも、歴史の授業やらニュースやらで聞いたことがあるでしょう。有名な環濠集落の史跡であり、国営公園のこと。

環濠とはその名の通り、環状の壕、すなわち空堀にて囲まれた集落のこと。弥生時代の人は、蓄えた資源を外敵から守るため、その防御策として壕をめぐらせ、木柵・土塁・逆木を構築したわけです。

ゆえに環濠集落は、城の原点でもあり、吉野ヶ里遺跡は日本100名城の1つに認定されている。

訪れて改めて実感したのは、その領域の広大さと、開けた地形、外輪と内輪で構成された二重の壕で、これはもう本当に城ですね。

出土された遺骸の中には、首が切断された遺骸や(これは死後に切断されたらしい)、腹部に複数の矢尻が入った遺骸などもあり、この長閑な風景の場にも、かつて戦乱があったのだなあと思った次第。

かつてここで暮らしていた人々は、日々どのような思いで、何を考え、何を楽しんで暮らしていたんだろう。今となってはその片鱗を伺えるにすぎないが、その片鱗から、かつての姿を想像することは、史跡乗る楽しみ方の一つなのだ。

城攻め:沼田城

続日本100名城、11城/100城目。

コロナ禍で日本100名城巡りが残り10城でストップしたままになっているが、少し感染拡大が落ち着いてきたという状況を鑑みて、続日本100名城めぐりを再開したい。日本100名城も、おいおいね。

今回は平日水曜日を休みにする、週休3日制を導入したらどうなるかの実験を兼ねて、群馬県沼田市にある沼田城へ。

まず沼田城を語る前に、ここで勝手に講釈を垂れたいのだが、江戸期において、藩の政務の中心地であった藩庁が置かれていた城は、その経緯から、現在は主に以下のような形態を取っていることが大半である。

  1. 遺構や天守が現存している(あるいはその一部が復元・復興されている)
  2. 県庁や市役所、公立学校などの公共施設が設置されている
  3. 公園として綺麗に整備されている
  4. 遺構を含め、ほぼ何も残っていない

これは統計データに基づくものではなく、あくまで私が訪問した結果から述べているだけなので、もっと違った見方もできるかもしれないが、だいたいこんな感じなのだ。

んで、これらはそれぞれ別というわけではなく、組み合わせ技の場合もある。例えば、一部の遺構を残しつつ、かつての曲輪に庁舎や学校が設置されていながら、公園として整備されているケースなど。なお公園・学校・動物園・遺構(一部新しく作っちゃった遺構風モチーフ)と盛りだくさんなのが、穴城として名高い小諸城だったりする。

一般に「城」と認識されるのは1のケースで、この代表格は姫路城。2のケースはたくさんがあるが、1と2を含めると有名どころでは松江城。3については1との組み合わせでイメージしやすいのは大阪城。皇居を公園と呼んではいけないが、江戸城もこれに近い。あと4のケースは意外と少ない気がする。かつての政務の中心地は、交通の要所であることが多く、利便性が損なわれていないなどの理由もあって、今も人が住み続けている。

沼田城に話を戻せば、藩庁があったところでもあるのだが、廃藩置県によって城が民間に払い下げられるなどして荒れ果てた上で、荒れ果てたその姿に心を痛めた地元の有志が、いわば私財を投げ打って保存に努めた城である。地元の有志が〜というケースもめっちゃ多く、このパターンで現存天守が維持されたのが備中松山城、公園として整備される方向になったのがこの沼田城である。大体有志や名士が買い取って、地元に寄贈するパターンが多い。

公園として整備された城は、その経緯から遺構全体の保存よりも、近隣住民の憩いの場としての公園化の方向性になることもあって、遺構は削られたり埋められたりして減っていくケースも多く、沼田城は多分こっち側なんだと思う。

そう、公園としては美しいし居心地が良いのだが、遺構については少し残念なのだ。これは良い悪いの話ではなく、何を選んできたかの話。

なので沼田城の見所は、残された僅かな遺構はもちろんなのだが、利根川流域の山間部に築かれた城だという、縄張面にあると思う。山を登るかのように本丸を目掛けて進むたびに徐々に高くなっていく点や、利根川支流の薄根川を背景とした後堅固な点などから、この地に城を築いた理由というものが実感できる城。

また、かつては本丸(一般には隅櫓が設置される位置)に、五層天守があったとのこと。関東で五層の天守を持っていたのは、この沼田城だけである。別に弘前城のように隅櫓を天守化しても問題ないし、ほぼ天守と呼べる櫓の存在は大規模な城郭あるあるなのだが、このパターンでは防衛面におけるメリットがいまいちわからない。威容を誇ることで政治権力を誇示する意味合い以外に、メリットあるのかな。

城攻め:土浦城

土浦という地名に対して、なんとなくヤンキーのイメージしか抱いていなかった人は、私です。これは偏見でしかないが、概ね間違ってないのではなかろうか。

さて土浦城。今は亀城公園の名で公園として整備されている城。今は続日本100名城の一つに認定されている。

古地図を見る限りではかつては南北を流れる河川より堀に対して水を息入れるなどして、見事な防備の城であった模様。いくつかの河川は埋め立てられたが、今もその地形からは、往時の縄張を窺い知ることができる。

廃城後、何度かの移築を経て元の場所に納められた櫓門が現存しており、見どころの一つとなっている。

その他、本丸には櫓を復元するなど、少なからずとも整備に力を入れている印象で、居心地の良い公園であった。ちなみに昼間なのでヤンキーはいなかった。

土浦の街に関して補足しておけば、江戸期はもとより、近代では80年代など、かつては賑やかだったが今は寂れちゃった感が強い。よ地方都市にはよく見られる昭和の風景が、今も現存している。

デザイン性に富んだ建造物とか。

505メートルにわたる、かつては賑わいを見せたかもしれないが今は廃れっぷりがヤバい繁華街、モール505とか。

とはいえ駅はプレイアトレとしてリニューアルされ、地域住民の憩いの場となっている。ヤンキーはいなかった。

常陸野ネストも飲める。ヤンキーはいなかった。

そう、ヤンキーはいなかったのだ。ヤンキーは絶滅したか、日中は明るすぎて出てこなかったのか、もともといなかったのかは知らないが、彼らも今となってはレアなポケモン状態なのかもしれない。

城攻め:鬼ノ城

日本100名城めぐり、90/100城目。ゆるーく続けているこの旅も、いよいよゴールが見えてきた感じであるが、残り10城は全て拠点からは遠方の城。まだしばらくかかりそう。

鬼ノ城は山奥の僻地にある岡山桃太郎空港から車で30分程度の距離にある山城である。古代山城に分類されるもので、発掘調査によれば築城されたのは7世紀頃、大和政権の時代であると推測されているが、どうやらはっきりとした確証はない模様である。現在は写真の「西門」が復元されている。

特徴は城壁。これは版築土塁と呼ばれるもので、土を建材として用いた「土塁」であるが、単なる土塁と違う点は、踏んだり突いたりして、固めている点。とても労力がかかるものだが、それがこの鬼ノ城では大規模に展開されている。

鬼ノ城の石塁、土塁による城壁は全長2.8キロに及ぶが、現在はハイキングコースのように外周を一周できるようになっている。所要時間は2.5時間ほどであり、今回は時間の関係で試さなかったが。

この城に関しては築城された年代が古過ぎるということと、私の好きな戦国期においてはその名が出てくることがないことから、正直あまり興味は持てなかった。

それよりも鬼ノ城ビジターセンターまでにたどり着くまでの道路が大変細く、1車線なのに双方通行となっていて、登る側も降る側もそれぞれが譲り合わないと通行できなかったのが一番印象に残ったこと。道路広げてほしいな。。

ちなみに遠景はこんな感じで大変美しい。展望台から撮影できます。

城攻め:備中高松城

続日本100名城、8/100城目は備中高松城。羽柴秀吉と黒田官兵衛によって、日本戦国史上最初の「水攻め」が成された城であることは有名である。

3万の兵力で押し寄せた秀吉軍であったが、高松城は平城ながら湿地帯を巧みに利用した城であり、大軍で攻めよせることが難しい城であったようだ。事実、二回ほどの力攻めを行ったものの、攻略に失敗している。城兵が3千〜5千もおり、籠城戦としては守備側の兵力が多かったのも理由だろう。平城とはいえ、湿地帯では攻め入ることができるかしょは限られており、かつ守備兵が多い状況では力攻めは難しい。

この点だけでいえば、のちに石田三成が秀吉の真似事として水攻めを行い(そして事実上は失敗に終わった)忍城と類似していることがわかる。水攻めという選択だけを見れば、三成が採った行動は間違ってはいなかったのかもしれない。

力攻めが難しければ、秀吉お得意の兵糧攻めという手もある。秀吉軍は包囲戦を行なっており、城の補給路は絶たれていた。しかし毛利軍4万が援軍として存在しており、時間をかけるわけにもいかなかったようだ。

高松城は平野部に築かれた平城ではあるが、広域でみれば山々と川に囲まれた城である。水攻めを進言したのは黒田官兵衛とのこと。

水攻めの面白いところは、普段の内政技術、治水技術が戦争に用いられる点である。秀吉はわずか12日間で、約4キロメートルに及ぶ堤防を完成させ、高松城は湖に浮かぶ浮城の様相となった。これは秀吉の非常に優れたプロジェクト管理能力を示すものである。

秀吉は、前例がなかった水攻めについて、出来る確信があったからこそ着手したのであろうが、例えば私が秀吉と同じ立場だったとして、水攻めを敢行できたかといえばかなり疑問なところに思うし、当時、他の武将で同じことができた人はいただろうか?

窮地に追い込まれた時に垣間見える秀吉の時頭の良さは、この事例だけではなく、水攻め後の中国大返しにもみられることである。

そして秀吉は、常識を打ち破る発想力はさることながら、それを実現する力が優れていた。つまり、確信を現実に変える能力である。それが秀吉の強みであり、天下人となった理由かもしれない。

城攻め:小谷城 89/100城目

近畿地方の100名城はほぼ攻略済みであったが、いつでも行けそうな小谷城を取り逃していたので行ってきた。

が、結果としては雪に見舞われ登城は断念。河毛駅前のコミュニティハウスにてスタンプのみ押印することとなった。城攻めとはいえない。

コミュニティハウスの方いわく、小谷城は降雪10センチとのこと。登山靴でもないし、また来ればいいかと思いやめておいたのだ。レンタルサイクルもやっているようなので、春か秋にでも再訪しようと思う。

写真では晴れているように見えるが、これは一瞬のこと。天候が非常に不安定で、晴れたり吹雪いたりの繰り返し。そもそもこのあたりは冬場は雪がよく降る地方なのだと思う。東海道新幹線も、降雪時には米原あたりで徐行になることがよくあるアレです。

年末年始は100名城、続日本100名城巡りには向いていない。降雪の影響ももちろんだが、スタンプの設置場所にはその管理上、市役所、城址併設の資料館などが多く、それらが軒並み閉館しているからである。城址にある建物の中に、ある種野ざらしになっているスタンプもあるが、その場合は持ち帰るような輩がいるやもしれず、スタンプの管理を人間がやっているというのは致し方ないことに思える。

ただスタンプを押印した紙だけ置いてあるというパターン。あれだけは許せないというか、全くスタンプラリーの趣旨を理解していないw やめて。