2024年は目の前にあることを着実に進めたい

2024年。

連日、心を痛めるような出来事ばかり起こっている。被災された方々、被害に遭われた方々が、できるだけ早く日常生活を取り戻せるように、まずは身近なところから、できることを探していきたい。

年が明けて気持ちを新たに、何かに全力で取り組めたらいいなと思ってたが、その何かというものは、なにも新しいことでなくても良いと気づいた。

そのため、今年は、今、目の前にある様々な事柄を着実に前に進めることに注力していきたいと考えている。それらを以下に述べる。

まずは積みゲーである。積みゲーとはなにかといえば、その名の通り、「一度もやらずに、あるいは途中までやったがクリアしない状態で積んであるゲーム」のことである。この定義は私なりの解釈なので本当のことは知らないし、そもそも俗語なので定義どうでもいいだろう。私は、私の積みゲーがなくなる世の中を作る。積んであるゲームを着実にクリアしていき、積みゲーをなくすのだ。Steamでセールの都度に積んでいるため、天下統一までの道のりは長い。そして時間は有限だ。

次に、健康である。昨年初頭は糖質制限やら食事制限やらで大きく痩せることに成功したが、ガンダムのV作戦よろしく、その体重は底から右方がありである。実に好景気。痩せないといけない。痩せるためには、食事制限と適度な運動である。私は死ぬほど長距離を歩ける人なので、当面はとにかく歩くことに徹したい。

最後に、

と書こうとしたが、目の前にあることってキリがないんだなも。なんだかんだと仕事もずっと終わりが見えない。一生懸命ではなく、日々、一所懸命に励むほかない。それが未来を作るのだ。

ちなみに最近、新しいデバイスを手に入れたら、きっとすごいことができるようになるんじゃないかとか、もっと効率的になるんじゃないかとの言い訳でデバイスがどんどん増えていっており、積まれている。そう、積みゲーならぬ積みデバイスである。使ってないなら売ればいいのに、そもそも売るのが面倒くさい。

積みデバイスどうしたもんかね。今年もよろしくお願いいたします。

カカロット、お前がナンバーワンだ

誰しもなんらかの特定のジャンルでは世界一に違いないのだが、まあ目に見えて世界一といえるような何かが欲しいよね。私は欲しいです、世界一の称号。

だが現実はそう甘くはなく、目立った領域で世界一になる人は、世界一になるべく修練を乗り越え、世界一になっているわけだ。また天性の頭の良さであったり、身体能力の高さというものは実際にあるわけで、それはもう強くてニューゲームみたいなものなので、後からなにか手を加えても追いつくことはできないだろう。

というように、世界一にはなれないなーということが、広く社会に触れていくなどして、ある程度の年齢になるとわかってくるもので、諦めてしまうこともあるかもしれない。

そんな中で、街を歩いていたら、ふとこんなものを目にした。

どうやらこれは、日蓮宗の教えの一つらしい。私は日蓮宗には縁もゆかりもなく、全く信仰というものも持っていないし、むしろナムナム言ってるなんとか学会みたいな最高に悪いイメージしかないうえに正直その輩のことが大嫌いなのだが、この標語のような教え自体は、まあそうじゃないかなと思う次第です。

どのように解釈するかとか、正しい解釈がとかとは別として、私はこの標語をシンプルに「心を強く持て」というように理解した。

知能的にナンバーワン、身体的にナンバーワンにはなれなくとも、精神的にナンバーワンにって誰にでもなれるのではないだろうか。

それはもう心の持ちようの話。つまり、自分は世界に対して、どのような心持ちで対峙するかという話である。自分がどのように考えて生きるかは、誰にも変えられないし、止められない話だから。

なので私は、百獣の王として生きることにした。広く遍く群がる獣たちの挙動に動じることなく、自らの強い意志を持って、この世界に対峙するのだ。

昨日その強い心で試験を受けたが、想定の斜め上からの出題であったため、私は戦わずして棄権した。

私にとってのチバユウスケ

ミッシェルガンエレファントというバンドに対して、特別な強い思い入れがあったわけではないが、何も無かったわけでもない。90年代末をバンドの人として過ごしていた私としては、やはりチバユウスケは憧れの一人だったし、憧れというものを超えて、もはや崇拝するレベルのカリスマだった。

だって、誰よりも何よりも、あの、「がなる」「われる」「ダレる」声はかっこよかったし。まるでディストーションが効いてるみたいな声を聴いて、かっこええええええ!!!!って思わなかった人がいるならば、この星から出ていって欲しい。同じ時代にロックというものに触れてきた人たちは、その誰しもが彼に対して畏敬の念を感じていたんじゃなかろうか。

だから、早くして旅立ってしまったことに対しては、とてもショックで、彼の死を知ってからは、もうずっとミッシェルとThe Birthdayのリピートです。みんなそうだよね。

スラムダンクの映画が大ヒットして、そのかっこよさが今の若い人たちにも伝わったみたいだから良かったなあ、とは少しだけ思う。全然全く良くないけど。

私は秋から冬にかけては寒すぎて元気がなくなるので、今回さらに元気がなくなってしまったんだけど、自分が好きだったロックというものを改めて思い出すことができた。

で、私にとってのロックとは何かといえば、音楽のロックというジャンルに留まらず、それは概念でもあるし、情熱そのものでもあるし、自由そのものでもある。

そのロックは、今も私の根底にあって、誰にも負けない強い情熱というものを呼び起こしてくれる。何かに躓いた時には、ロックを思い出すのだ。その辺のマニュアル通りに生きてきたポンコツリーマンに、この覇道な俺様が負けるわけがない。

そんな気持ちを思い出させてくれて、どうもありがとうございました。どこかの惑星で、アベと二人で楽しんでるといいな。

メメントモリ

私は同僚がある日殺されてしまったり、隣のオフィスでそのオフィスの方が亡くなっていて死後3日目に発見されるなどの事案から、人はいつか死ぬ、それもあっけなく死ぬということを改めて認識させられてしまって、結局それらは今となっては原動力になっているし、なんらかの意思決定の際には死というものを前提に考えるようにしている。

結果大体間違ってないし、大体うまくいってる。

古来より、人にとって死というものは当たり前ながら身近なものであり、死にまつわる研究のようなものは進められている。それは例えばメメントモリであったり、四馬の譬喩などた。

また、最近であれば、スティーブ・ジョブズの有名なスタンフォード大学でのスピーチでは、「死は生命最高の発明だ」とも述べている。

死というものを意識して絶望して生きよう、ということではない。軽く言えば「どうせいつか死ぬんだから、日々悔いなく生きろ」ということだ。やるべきことをやり、やりたいことをやり、やるべきではないことをやらない。実にシンプルなことで、難しく考える必要はないと思う。

その上で、長く生きていると、人には誰しも暗黙知というものが備わっている。それは直感につながるもの。スターウォーズならばフォースなのだ。

ルーク、フォースを信じるのだ。

フォースを信じて生きるのだ。疑問や違和感をそのままにしてはならない。心は答えを知っているので、直感に従って生きていけば、大体のことはうまく行く。

そう思いながら私がふらっと入った蕎麦屋が不味かった。やっぱりGoogleマップの口コミ見ないとな。

需要の高さに甘え続けてはならない

市場への参入障壁が高いなどの理由で、プレイヤーが顧客需要と比較して少ない場合、当然に売り手市場になる。

この場合、さして競争優位などを持たない普通のサービスやプロダクトであっても、あるいは品質的に優れていなくとも、そこそこ売れていくものである。いわばバブル景気だ。

それをわかっていて、危機感を持って次の需要を探す、あるいは開拓するなど、次に備える活動を行う場合と、そうではない場合が、企業にとっての将来を分けるものだと考えている。

高需要は長く続かない。ゆえに、稼げるうちに稼ぎ、その稼ぎを持って次の稼ぎを作り出すために投資する。

そのサイクルを回していくことも、企業経営のごく基本的な、そして重要な活動に違いない。

大切なことは、今ここを十分に知り、今ここに集中し、そしてその先にあるものを読むというよりも、自ら創り出すことなのだ。

また、どんなに良いプランであっても、結果が出なければ意味がない。現状に甘んじず、あくまで結果を追い求める姿勢は、経営者の資質として問われるものに違いない。

と概ねわかっていても、なかなか次の一手が思いつかないんだなも。であれば商機を掴み続けるしかないんだが。

あまり有能ではない人とどのように向き合うか

私自身が有能だと言いたいわけではないのだが、少なくとも物事を自分で考えて前に進めるという、最低限の能力は備わっている。

だが世の中にはこの「自分で考える」という思考が一切抜けている人がいるもので、そのような方は、常にお伺いを立てないと前に進めないようだ。

自身の考えに自信が持てなくて前に進めないのか、責任を持ちたくないだけなのか、そもそも本当に考えるという能力が欠落しているのか…そのどれでもないのか分からないが、この自分で考えられない人、言ってしまえばあまり有能とは言えない人に直面した時に、私たちはどのように向き合えば良いのだろうか。

私の結論は「そういう人は無視して良い」だった。

むしろ考えられない人にとっては、どう思うのかを聞かれること自体が苦痛のようだ。質問攻めになってしまううえに、明確な答えは得られない。ならば傍若無人とも思しき所業をもって、その人を嵐に巻き込みつつ前に進む他ないのだ。

これが若い人ならば教えてあげるという選択もあるだろうが、相手は自分より年上だったりするわけで、これまでずっとこの状態で過ごしてきた人ならば、育てる対象としてはもう遅い。

巻き込むのは良いとして、最終的にこのような人を上手く活かす方法って何なのだろう?例えば指令を行い、手足となってもらう以外に、本当に価値はないのだろうか?そして、本人はこれでいいんだろうか?

などと疑問は尽きないが、人のことを考えていたところで何も解決に至らないため、これはもう必要悪だとか、家来だとか、部下でもなんでもない人のことをそう思いながら、もう着いてきてもらうほかない。

着実に前に進むことでのみ、その道は開ける。

映画「バクラウ 地図から消された村」を観た

一言で言えば見所がたくさんあって良かった。

面白かったかと言えば面白いんだが、それよりもこのような映画が世の中に出てきて、それが普通に観られる世の中そのものが良かったな、と。

なので今回は、この「良かった」なる曖昧かつ適当、稚拙、そしてシンプルな言葉を使ってレビューしたい。

まず個人的には、非常に馴染みのないブラジル映画である。映画といえばハリウッド、そして欧州諸国、アジア諸国のものはよく観るものであるが、南米なのだ。冒頭の葬儀シーンからして、純日本人な私としては、その文化の違いをまじまじと見せつけられて実に良かった。

冒頭といえば、オープニングにスタッフロールのようなものを少しつけてくるあたりや、10社を超えるであろうスポンサーなんだか関係会社なんだかのロゴを表示してくるあたりも良かった。このまま映画が終わるんじゃないかとも思ったが、そう思う時点で私はハリウッド的な映画の構成に慣れ親しみすぎているんだと痛感した。

牧歌的なストーリーで、全く展開が進んでいない雰囲気さえ感じさせてくれるわりには、後半になって、その牧歌的な雰囲気の背景にある狂気をちらつかせてくれるあたりもとても良かった。展開が読めそうで読めない、そして驚きがありそうでないのも魅力。

バイオレンス作品に傾いた途端、何よりもバイオレンスしているところも良かった。あんなに見事に頭が吹っ飛んだシーンはこれまで観たことがない。

また、全てを語らずとも、描写そのものでその意味を誰にでも理解させられる点は、監督や脚本の優れた手腕が感じられて良かった。これは映画が映画であることの魅力だ。

なお、Netflixでは、本作品が「SFサスペンス」にカテゴライズされていた。SFなシーンはどこかな?と楽しみにしていたが、たぶんそれは「空飛ぶ円盤」型のドローンが映る点くらいしかない。

つまり全くSFしていないのだが、だからこそこの作品に出会えたともいえるので、そんな適当なカテゴライズそのものも良かった。

映画そのものに対する価値観は、多種多様であることを学べる作品でもある。ハリウッド映画のアンチテーゼと採れば、そう採れなくもない。一風変わった映画、というやつを観たい人には是非おすすめしたい。SFサスペンスではない点も含めて。

起業家という言葉で一括りにしてはいけないよ

「起業家」と一言でいっても、いろんなパターンがあるわけです。

例えば自己資本で事業を興し、そして展開し、得た利益をまた自身の事業に投資し続けるパターンと、融資やVC出資など外部からの資金調達を持って事業を興すパターン。

どちらがいいとかではなく、資金力やアプローチの違いであるんだけれど、どうも日本国内においては起業家=後者の認識が強いように思う。

事業の成長についても同じことが言える。スタートアップは当初は中小企業であることはもちろんだが、中小企業がスタートアップかというと、それはそうでもない。多額の資金調達により数年後にExitを目指すとか、それが全ての中小企業に求められているものでもないんだが、この辺りの分別もあまり一般には行われていないように感じる。

で、いろんな人と話をしてみて思ったことは、起業しない人は単純にビジネスそのものであったり、事業そのものであったり、いろんな会社の成り立ちというものにあまり興味を持っていなくて、極端に言えば、今時点に起こっていることにしか目が向いていないのかもしれない。視野狭窄と言って仕舞えばそれは失礼だとは思うが、それは本当に興味がないから起こっていることなんだよねえ、と。

そして、なぜお金に興味がある人はたくさんいても、ビジネスの成り立ちそのものに興味がある人が少ないのかわからないし、多分その領域では分かり合えるかどうかが起業するか否かの分岐点なんじゃないかなとさえ感じる。

ここでまであくまで私の見解でしかないし、一般化したり、そもそも一括りに話せるものでもないんだけども、もう少し日本では起業という選択肢そのものに対する理解が深まってほしいし、そういう選択が社会的に受け入れられる土壌があっても良いんじゃないかとつくづく感じている。

とりあえずキャピタリズム2でもやったらいい。あの名作、リメイクしてくれないかなあ。

スラヴァ・ウクライナ

広島という、世界平和を考えるうえでは最も象徴的な街にて開催されたG7が、幕を閉じた。

誰しもの印象に残ったところかもしれないが、かつての大戦における連合国と枢軸国とが、その凄惨な過去に悲観せず、足並みを揃え、広島の地で平和を願うというのは、まるで映画のような現実であり、この平和への願いが、いつか子どもたちが学ぶ歴史の教科書に記される日がくることを私は願う。

ロシアによるウクライナ侵攻や、中国による覇権主義の拡大、サイバー攻撃で外貨を稼ぎつつも、ミサイルを打ち上げまくっている北朝鮮など、隣国に様々な脅威を抱えている日本。

そして、それらの脅威は日本のみならず、ロシアによるウクライナ侵攻を起点として、ヨーロッパ諸国に、ひいては世界各国にとっても大きな脅威となっている。

ゆえに私たちは、ウクライナを守らなければならないのだ。世界各国からの支援によりウクライナを守ることができれば、それは世界平和のための、新しく蓋然性のある枠組みとして、今後の世界平和に寄与するものとなるはずだ。

漫画、沈黙の艦隊では、主人公である海江田四郎により、各国の原子力潜水艦が保有する核兵器を抑止力として、世界に秩序ももたらそうとする構想が描かれた。

漫画ならではの発想あり、現実的には難しいと思っていたものの、いまウクライナに各国が兵器を供与し、その防衛力を持って秩序を保とうとする取り組みは、少しだけ似ている部分もあるのかもしれない。

そんな沈黙の艦隊が今年実写映画となる予定だが、ポリコレ対応なのか、速水が女性になっていた時点で、実写版の雲行きが実に怪しい。大丈夫か?

城攻め:飫肥城

飫肥城は言わずもがな、島津氏と長い期間争い合っていた伊東氏の居城である。

一度は島津氏に追放された伊東氏だが、豊臣時代に復権している。島津氏への抑えとして置かれ続けたのであろうことは、容易に想像できる。いや調べていないので真相はわからないけども。

城としての特徴は、飫肥石と呼ばれる硬くて加工しやすい石が石垣に用いられていることだ。

飫肥石は通常石垣に用いられる石とは異なり、溶結凝灰岩である。溶結凝灰岩は軽石などの白い岩片がレンズ状に引き伸ばされているのが特徴とのことで、石垣をよくみてみると、白っぽい点々がいくつかみられる。

山に城を配し、河川で囲われたような平地に武家屋敷が立ち並ぶ構えは、戦果と自然災害を逃れている飫肥の街に、いまもなお残されている。いわゆる古い街並みであり、小京都だ。素人目に見ても、至極築城するのに適した土地で、当時はなお美しかったことであろう。