函館と私

立待岬

函館に行ってきた。諸々忙しいので日帰りである。

子供の頃は毎年お盆の時期になると函館に行き、お墓参りをしていた。お墓参りといっても会ったことのないご先祖様のお墓なのだが、夏の風物詩の一つとして楽しんでいた。

大人になり毎年行くこともなくなり、今回は6年ぶりの訪問だった。6年もあれば街は変わるもので、もう棒ニデパートは閉店しているし、駅の周りはずいぶんと綺麗になっているし、電動自転車のレンタサイクルもあった。

そして墓参りの際に供花を購入していたお花屋さんは、閉店していた。なんとなくそんな気がしていたので、別のところで買って行って良かった。

西波止場や金森倉庫の界隈の賑やかさも、ハイシーズンの割にはコロナ禍の影響で外国人がほぼいないため、閑散とした様子さえあった。観光都市である函館にとっては、コロナウイルスによる影響はかなり大きいものと思われる。

街の見え方、景色の見え方は、年齢を重ねるごとに変わってくるものである。街そのもの、景色そのもの、それぞれの移り変わりとは異なり、目で見て、風を感じて得られる情報そのものが全く変わってくる。

かつて立待岬はただの岬でしかなかったが、今見てみればパノラマの広がる眺めの良い場所であり、台場として使用されるのに適した土地でもあるとも思うし、純粋に美しい景観なのだ。

見える景色は、これからも何度も変わるのだろう。その時、刹那を生きるのだ。

城攻め:土浦城

土浦という地名に対して、なんとなくヤンキーのイメージしか抱いていなかった人は、私です。これは偏見でしかないが、概ね間違ってないのではなかろうか。

さて土浦城。今は亀城公園の名で公園として整備されている城。今は続日本100名城の一つに認定されている。

古地図を見る限りではかつては南北を流れる河川より堀に対して水を息入れるなどして、見事な防備の城であった模様。いくつかの河川は埋め立てられたが、今もその地形からは、往時の縄張を窺い知ることができる。

廃城後、何度かの移築を経て元の場所に納められた櫓門が現存しており、見どころの一つとなっている。

その他、本丸には櫓を復元するなど、少なからずとも整備に力を入れている印象で、居心地の良い公園であった。ちなみに昼間なのでヤンキーはいなかった。

土浦の街に関して補足しておけば、江戸期はもとより、近代では80年代など、かつては賑やかだったが今は寂れちゃった感が強い。よ地方都市にはよく見られる昭和の風景が、今も現存している。

デザイン性に富んだ建造物とか。

505メートルにわたる、かつては賑わいを見せたかもしれないが今は廃れっぷりがヤバい繁華街、モール505とか。

とはいえ駅はプレイアトレとしてリニューアルされ、地域住民の憩いの場となっている。ヤンキーはいなかった。

常陸野ネストも飲める。ヤンキーはいなかった。

そう、ヤンキーはいなかったのだ。ヤンキーは絶滅したか、日中は明るすぎて出てこなかったのか、もともといなかったのかは知らないが、彼らも今となってはレアなポケモン状態なのかもしれない。

旅の計画を立てることの不毛さ

旅とは計画を立てるところから始まっている。

なにせ計画を立てることは楽しい。限られた時間や金銭をもって、最大限に楽しむためにはどのような旅程が望ましいか。人々はふだん以上に頭を働かせ、イマジネーションをもって未来を想像する。これは無条件に楽しい作業である。

と同時に、私個人としては、それはとても不毛な作業にしか思えない。それは計画通りに行動することが楽しいのか、という疑問からくるものである。

では旅とは何なのか。それは未知との遭遇に他ならない。未知がなければ旅ではない。そう思う。

故に私の旅のスタンスは至極明解で、まず予算は決めない。そして大まかな方向だけを決める。訪日外国人の旅行者が多い中、宿探しに苦慮する可能性はゼロではないが、宿泊地は旅をしながら前日、もしくは当日に決めて押さえる。運の良さもあってか、それでいてこれまで宿泊に困ったことはない。

という前置きが言い訳で、実は10連休直前なのに旅程をなんにも考えていないのだ。単純に旅程などを考えるのが億劫だから。

ただコンセプトだけを決めた。今回のコンセプトは「ふだん旅行や仕事では絶対に行くことがない場所に行く」だ。人里を離れる。未知との遭遇である。

さて私はどこに向かうのでしょうか。乞うご期待。

奈良に行って木造建築物観てきた

小谷城と京都での美味しい飲食のついでに奈良に行ってきた。小谷城のついでに奈良に行く人って少ないと思いますけども。

奈良って松永久秀と筒井順慶のイメージしかなく、だいたいそれで合ってるわけですが、多くの方が修学旅行で訪れているのではないかなと。私の場合、中学校も高校も修学旅行は渋くも「東北」だったもので、奈良の観光スポットに訪れたことはない。高取城跡に行ったことがあるだけである。

ふつう高取城じゃなくて大仏とか行くだろ。

てな感じで定番スポットの興福寺と東大寺に行ってきた。とっても寒くてですね、車でもなかったので冬場に観光って辛いわけですよ。よって半日しか回らず早々に帰った。次回は車かなと。

昨年、約300年ぶりに復元された中金堂。8世紀に創建されて依頼、7度も消失している。屋根の形が素晴らしいですね。破風がないのは創建時から焼失都度に繰り返し規模や形式を維持したままに再建されたからかな。同じく消失の被害に遭っても、設計をし直した大仏殿との違いが面白い。

国宝の五重塔。逆光だったので無理に現像したら色合いが青みがかってしまった。現存するものは1426年に再建したもの。古都奈良の象徴ともいえる、圧倒的なスケールと存在感。東京で生まれ育ち、高層の建築物に慣れ親しんでいる私にさえ、そのスケールの大きさには唖然とさせられる。これは本当に観ていて飽きない建築で、とりあえず10分位色々な角度から眺めていたが寒すぎて撤退した。創建当時には、きっと多くの人々がため息をもらしたに違いないと考えると胸熱。

国宝の北円堂。八角堂、八角円堂と呼ばれる、屋根が八角形の建築物。これ唐破風があるのが特徴なんだろうか。江戸時代に再建したそうで、恐らくその際に唐破風をつけたのだと思う。唐破風つきはユニークであるけれども、もともとのデザインのほうが、シンプルで美しかったのでは…との所感。奈良は八角円堂巡りだけでも飽きないと思う。

国宝、東大寺の大仏殿。その名の通り、大仏を納めている建築物である。圧巻のスケール。この建築物に言えることは、多くの方が外観よりも中身のほうが目当てだということ。人間とは異なり、内面に目を向けられているといえばかっこいいんだが、この素晴らしい建築を目の前にして何も感じないのは非常にもったいない。これも江戸時代に再建した際に唐破風をつけているが、こちらは八角円堂とは異なり唐破風をつけたことで、その威容が増している印象。なんにしても最高の建築物の一つ。大仏ももちろん素晴らしい。

ここまで書いてきて気づいたんですが、城巡りをしている影響か、いつの間にか木造建築好きになってたなと。しかも奈良はローマかというくらいの至宝の集う場所で、木造建築好きにはたまらない場所だとわかった。

薬師寺や法隆寺なども行けておらず、大和郡山城攻めも残ってるし、寒くない時期にまた再訪したい。そう、寒くない時期に…

遊子水荷浦の段畑に行ってきた

私の生涯研究のテーマの一つとして「石垣と人の暮らし」というものがあるのだが、そのテーマに沿ったフィールドワークとして、遊子水荷浦の段畑に行ってきた。

遊子水荷浦の段畑は、宇和島の中心地から車で約1時間ほど。三浦半島の端にある。海岸沿いを走るルートがドライブとしても楽しい場所。

景観は見ての通り絶景で、時間をかけて行く価値のある場所だった。晴れていればもう少し美しさを伝えられる写真が撮れたに違いないという点は残念。

農作業用にモノラックが広範に渡って設置されていた。収穫物の搬送用途はもちろんのこと、人間の搬送にも使っていると思う。約1メートルの石垣で構築された段畑には、モノラックは必須なんだろう。

石垣としては、割石の乱積みに相当すると思われる。石は尖っているが、この形状からは大きな石を何片かに割ったものを積み上げているように見受けられるのだ。ゆえに野面乱積みではなく、割石乱積みとなる。また、恐らく裏込めはしていない。乱積みによって隙間を多く作ることで、通水性を良くしているのだろう。

ちなみに馬鈴薯を栽培していた。

ボンバルディア DHC8-Q400に乗ってみた

ボンバルディアのプロペラ機に乗ったので諸々メモる。

まずボンバル機といえば国内でも過去に重大インシデントに相当する事故をいくつか起こしているため、正直乗りたいだなんて思っていなかった。しかし、松山空港から中部国際空港まで行くという予定ができてしまったので、まあやむを得ず乗ることになった。そしたら案外面白かった。

まずこの機体、客席よりも羽が上位にあるのだ。

そのため、どの席からも景色がよく見える。

あとプロペラ機はジェット機に比べ、離陸に必要な滑走距離が短い。あっというまに飛ぶ。13列目という羽の真下らへんの席で、タイヤが浮くところを眺めることができたのは面白かった。

そして羽の近くの席では、ブーンってな感じにプロペラの回る振動が伝わってくる。といっても、ものすごく気になるレベルの振動ではない。

また、プロペラ機は想定していた以上に低空を飛んだ。しかもその日は晴天、視界良好で景色が大変素晴らしかった。松山空港→中部国際空港のコースでは、四国の山々、紀伊半島の山々がこれでもかというくらい眺めることができる。

特に紀伊半島の山脈の尾根の連なりを眺めていると、筒井順慶やらこの界隈の戦国大名が、京の都に近い位置にいながら勢力を拡大できない理由もなんとなく妄想できた。当然に平野部が少ないため、多くの作物を育てることはできない。故に人口も少なく、経済的にも恵まれず、軍備にかける余裕は少なく、兵も集められなかったんだろうなと。

未だにこの地は秘境であるに違いない。過去に熊野古道にて雲取越えにチャレンジし、スズメバチに追いかけられたり得体の知れない何かを察知したり、熊野の山に神の存在を感じたりとスピリチュアルな体験をしたことを思い出した。まあその当時は二日酔いだったんだろうけど。

ちなみにこのフライトのルートでは、ちょうど十津川村あたりの上空も飛ぶ。色んな意味で胸熱である。

スランディドノ(Llandudno)の思い出

2015年の9月に北ウェールズにあるスランディドノ(Llandudno)に二泊ほどしただが、何も記録を残していなかったのでおいおい書いていこうと思う。おいおい、なのだ。気が向いたら投稿を少しづく更新することにする。

スランディドノは何故「Llandudno」と書いて「スランディドノ」と日本語で表記するのかもよくわからない街なのだが(スはどこから来たのかと)、私にとってはとても印象深い街で、行ってみてすぐに気に入ってしまった街だ。そんな街は海外ではこの街しかないと思う。ウェールズ地方では有名な保養地らしいが、年老いた観光客がかなり多く、私は勝手に「ウェールズの熱海」と名付けて呼んでいた。この点はナンセンス極まりないが、気にしないでほしい。日本人たるボキャブラリーで語るとそうなったという、率直な感想なのだ。熱海だ。

なお、かの「不思議の国のアリス」は、オックスフォード大学の教授が、この街で思いついた構想から話が生まれたともいわれており、アリスのモデルになったアリス・リデル一家の別荘があったらしい。

スランディドノにはロンドンから電車で揺られて訪問した。この写真は、スランディドノ駅を写したもの。

Llandudno

Llandudno

モダンな作りながら、ガラス張りの部分が近代的でもあり、デザインとして非常に美しい。

Llandudno

ショッピングストリートの一角。小さな商店が立ち並ぶ。つまり商店街。お土産物屋さんも多い。

Good Bags of Llandudno

手作りっぽいかばん屋さん。なぜこの写真を撮ったのか全く覚えていない。

ANA'S FLORIST

アナさんの花屋さん。

数あるウェールズ地方の街で何故スランディドノなのかといえば、ヨーロッパ100名城巡りの拠点にしたからに他ならない。ここはコンウィ城にほど近い場所にあり、カーナーヴォン城へもバスで向かうことができる中継地でもあるのだ。(つづく)

城攻め:首里城

首里は琉球王国の首都であり、琉球王の居城である。

歴史的価値が非常に高い城であることは間違いないが、城址としてはこれまた歴史的な背景から、他のグスクと比較してしまうと(あくまで城址としては)劣ってしまう部分もある。戦災と琉球大学の建設によって遺構の多くが破壊されてしまったからだ。どちらも熾烈を極めた沖縄戦の影響であると言えよう。

沖縄本島の南側は戦災の傷跡を未だ多く残しており、首里城もその一つであることを認識したうえで巡ってみると、また異なる見え方ができるかもしれないし、そうでもないかもしれない。

ダラダラと書いてしまったが、今の首里城はかつての首里城の姿ではではないこと、大半が綿密な研究調査の結果として往時の姿を復元したものであることを認識したうえで、巡るべきではないだろうか。

首里城の特色の一つとしては、日本風に言えば江戸末期の完成された切り込みハギになっている点である。加工のしやすい石灰岩を用いた結果なのだろう。調べてみると今帰仁城や勝連城で用いられていた石灰岩とはその質が異なるものらしい。それが石積みの違いとして現れているのかもしれない。琉球でも南方で採掘される琉球石灰岩は、より加工がしやすいものだそうだ。

門は双璧を持つ門とアーチ門とに分類される。双璧門のほうが技法として古く、アーチ門は新しい。時代の新旧を知ることができるポイントでもある。

正殿からは、琉球王国と中国との結びつきの強さを学ぶことができる。朝貢を行っていた経緯もあり、宗主国は中国だったという見方もできる。1609年に薩摩によって侵略を受け、以後は薩摩藩に服属。明治になってから日本国に併合されるに至った。

日本そのものもそうだが、文化面において琉球王国が受けた大陸からの影響は大きい。

城攻め:座喜味城

座間味ではない、座喜味である。沖縄を車でぐるぐると巡って、意外と似たような、いや似てないような、そんな地名が多いのだなと気づく。

公益社団法人日本城郭協会により、座喜味城は勝連城とともに続日本100名城に認定されている。続、といっても100名城に認定されている中城や今帰仁城に劣らない素晴らしい城址である。その遺構の美しさは、完全復元された首里城をも凌ぐものである。

このグスクの見どころは見事なアーチ門だが、全体的に非常に整備が行き届いており、なにより美しいのだ。勝連城が質実剛健ならば、座喜味城は可憐な乙女とでも言うべきか。主郭には建造物の跡として礎石が残されている。このグスクでは、城壁の一部に登ることができる。柵などは設置されていないため多少足元に注意が必要だが、柵がないということは同時に視界を遮るものがない、ということでもある。見晴らしが良い。

なお座喜味城には沖縄戦あたりに日本軍の高射砲が設置されたり、戦後は米軍に接収され、レーダー基地になったりもしたそうだ。米軍のレーダー基地設置時に一部の城壁が破壊されたことは残念だが、その後復元されている。

なお私個人としては、かつての城跡がそのまま軍事施設として利用されることに対してなんとも感慨深いものがある。少なくとも県庁が建ったり学校の校舎が建ったり、動物園になったりしている城址よりは、本来あるべき姿を維持しているのではないか、という意味で感慨深いのだ。別に和歌山城や小田原城、小諸城、上田城その他諸々をDisっているわけではない。

城攻め:今帰仁城

今帰仁城は世界遺産でもあり、日本100名城でもある。

さて、今帰仁という文字を見て、読める方はどれほどいるのだろうか。

馴染みのない名前かもしれないが、今帰仁村はファミリー層に大人気な美ら海水族館や、カップル層に大人気な古宇利島にほど近い村である。村といっても人口は9500人弱いる。面積は約40キロ平方メートル。村の花はハイビスカス。

なお、今帰仁と書いて「なきじん」と読む。ここまで読みにくかったら私としては大成功。

古代の琉球は、三勢力にその支配が分かれていた。三勢力とは「北山」「中山」「南山」のことで、後世ではこれを「三山時代」と呼んでいる。いわば琉球三国志である。超かっこいい。

今帰仁城は前述の三山のうち、北山王国の王の居城だった城である。北山は中国との朝貢貿易によって潤っていたそうだが、1416年に中山王国の尚巴志王に滅ぼされている。なお尚巴志王は琉球王国を成立した初代の琉球王国王。

今帰仁城は広角でないと全景を治められないほどの巨城で、沖縄県内最大のグスクである。当然のごとく山城であり、主郭からの眺めは非常に良い。

そしてこの城も勝連城と同様に後ろ堅固である。実に攻めたくない城だが、広大ゆえに防御にも多くの兵を裂かなければならないのもまた事実かなと。弓兵の配置には困ったのではないかと推測する。

今帰仁に訪れる機会があれば、ぜひ訪れてもらいたい。そして今帰仁は非常にのどかな村でもあるので、海側のリゾートホテルではなく、山あいのゲストハウスなどに宿泊して、人工の光の少ない場所で夜空を眺めることをお薦めしたい。まあ私の場合は曇っていて何も見えなかったのだが。

100名城はこれで残り16城。