こんな記事がありました。途中までしか読んでないんだけど。
「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く
https://dot.asahi.com/aera/2019101100028.html
これはいわゆるルサンチマンなのかもしれないが、不寛容とかルサンチマンとか、そんな言葉で片付けていいものだろうか。武蔵うん小杉とか言われるタワマンの件もそうだが、ある特定のキーワードを持ってカテゴライズをしてコトを済まそうとしているのって、思考停止の何者でもないのでは。
違法性があることはもちろんのこと、社会的な慣習から明らかに逸脱しているケースに対してなんらかの感情を抱く場合については、その理由は明白だからよくわかる。でも自分自身の定めた勝手なルールに他人が逸脱していて、それに対して「ズルい」と感じる理由って、それ自体がものすごく自分本位な考え方ではないだろうか。
つまり、不寛容なのは社会ではなく、世の中ではなく、自分自身なんじゃないの、と。知らんけど。
他人のやることなすことに対して興味を持てるからこそ生まれる感情のではと思うので、そういう人はいっそのことSNS全般をやめたほうがよいかもしれない。あるいは、「そもそも他者は自分のことに対して興味をもっていない」という前提がなく生きていられることは、ある意味ハッピーなことで、そのハッピーさを負の感情に変えずに生きたら良いんじゃないかと思う。
果たして人類は、不寛容さに対して寛容さを求めるのではなく、興味の対象を外面ではなく内面に向けることができるだろうか。
どうでもいいので最後は壮大に終えといた。