城攻め:備中高松城

続日本100名城、8/100城目は備中高松城。羽柴秀吉と黒田官兵衛によって、日本戦国史上最初の「水攻め」が成された城であることは有名である。

3万の兵力で押し寄せた秀吉軍であったが、高松城は平城ながら湿地帯を巧みに利用した城であり、大軍で攻めよせることが難しい城であったようだ。事実、二回ほどの力攻めを行ったものの、攻略に失敗している。城兵が3千〜5千もおり、籠城戦としては守備側の兵力が多かったのも理由だろう。平城とはいえ、湿地帯では攻め入ることができるかしょは限られており、かつ守備兵が多い状況では力攻めは難しい。

この点だけでいえば、のちに石田三成が秀吉の真似事として水攻めを行い(そして事実上は失敗に終わった)忍城と類似していることがわかる。水攻めという選択だけを見れば、三成が採った行動は間違ってはいなかったのかもしれない。

力攻めが難しければ、秀吉お得意の兵糧攻めという手もある。秀吉軍は包囲戦を行なっており、城の補給路は絶たれていた。しかし毛利軍4万が援軍として存在しており、時間をかけるわけにもいかなかったようだ。

高松城は平野部に築かれた平城ではあるが、広域でみれば山々と川に囲まれた城である。水攻めを進言したのは黒田官兵衛とのこと。

水攻めの面白いところは、普段の内政技術、治水技術が戦争に用いられる点である。秀吉はわずか12日間で、約4キロメートルに及ぶ堤防を完成させ、高松城は湖に浮かぶ浮城の様相となった。これは秀吉の非常に優れたプロジェクト管理能力を示すものである。

秀吉は、前例がなかった水攻めについて、出来る確信があったからこそ着手したのであろうが、例えば私が秀吉と同じ立場だったとして、水攻めを敢行できたかといえばかなり疑問なところに思うし、当時、他の武将で同じことができた人はいただろうか?

窮地に追い込まれた時に垣間見える秀吉の時頭の良さは、この事例だけではなく、水攻め後の中国大返しにもみられることである。

そして秀吉は、常識を打ち破る発想力はさることながら、それを実現する力が優れていた。つまり、確信を現実に変える能力である。それが秀吉の強みであり、天下人となった理由かもしれない。

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