城攻め:勝瑞城

続日本100名城に選定された勝瑞城に行ってきた。

土日はスタンプ設置場所が勝瑞城近くのガソリンスタンドになっていたので、まずはガソリンスタンドへ。

ここの店員のお兄さんが本当に良い人で、スタンプを押してくれるのはもちろんのこと、色々と近隣地区の説明までしてくれた。もちろんガソリンの給油も行なった。給油後、勝瑞城へ。

勝瑞城の史跡内には、今は寺院がある。いわば寺領というやつだ。堀と土塁が現存している。特に堀は鎌倉時代を彷彿とさせる。鎌倉時代に行きたことございませんが。

堀には亀がいるが、どうも人間嫌いなようで近づくと水に隠れてしまう。

かつては大規模な城下町であったようだが、今はその見る影もない田舎町である。しかし、他の徳島県人にも聞いてみたところ、勝瑞は徳島の人の誇りの一つでもあるようで、徳島の人は勝瑞のことを悪く言わない。その点、とても好感がもてる。

城攻め:大洲城

大洲藩は勤王一筋の藩だったらしく、幕末史を学ぶ上においては、その名を目にすることが多い藩である。

坂本龍馬の「いろは丸事件」で有名な「いろは丸」の所有藩は大洲藩だった。大洲は海に面していないにも関わらず、軍艦を保有していた藩だったのだ。また、鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争にも参加している。6万石といえば小藩に分類していい規模かと思うが、藩の規模に関わらずに目立つ存在である。

そんな大洲の本城である大洲城。なんと廃藩置県による廃城が進む中、地元住民による保護もあり、明治21年まで城の破却が行われていなかったらしい。その後老朽化により破却されたが、2004年に伝統工法をもって城を復元している。つまり白河小峰城、掛川城と並ぶ、平成の木造復元天守の一つなのだ。

遺構の規模は小さいが、しっかりと整備はされていて初心者には優しい城になっている。お城ファンには物足りないかもしれない。

ユニークだったのは旧大手門のあたりの枡形の構造が残されていたことだ。その名も枡形通りだとか。見た目こそはかつてと全く異なっているが、車で駐車場に向かう際には、車で大手門の手前まで行き、駐車することになる。

つまり、現代においても下馬せずに大手を通ることはできないため、下馬して大手を通るという形になるのだ。これを楽しめる人には、是非楽しんいただきたい。

城攻め:小牧山城

小牧山といえば、信長公が清洲城の次に居城としたあの城だ。まっすぐ伸びる大手道が信長の城っぽいであるとか、近年の発掘によって近代城郭たる片鱗が見つかったりだとか信長ファンにはグッとくる要素が満載の城。

そんな城は、その名の通り尾張の小牧山にあるのだが、先日車で訪れた。

小牧山全体が公園化されてはいるが、小牧長久手の戦いの際に構築された土塁や石垣が未だ多く残り、お城マニアからすれば見所は多い。一般の人からしたら全く面白くはないかもしれない。

現存する遺構からは、安土のように信長らしさを多く見かけることはできないが、それでも稲葉山攻略の城、信長の天下布武の戦略における拠点の一つであるという事実だけでもお腹いっぱいになれるし、なにより小牧長久手の戦いの重要拠点だったわけで、家康視点(どんなんだよ)で楽しんでもお腹いっぱいになれる城である。意訳すると楽しいということだ。

なお、山頂には無駄に作っちゃった系の模擬天守が建っているが気にしないでほしい。

城が有るとか無いとかの話

だいたい地方のタクシーの運転手さんと城の話をすると「城はないんですけどねー」とか言われるわけね、城跡とか城址とかって。

説明が面倒くさいしわざわざ言い正すのも性格悪いなと思って何も言わないんだけど、なんていうか城の定義、まったくわかってないよね。

君ら天守のことを城って呼んでいるんでしょ、城って。

天守は確かに城の一部ではあるが、天守だけが城ではなく、日本で言えば複数の郭で構成された防衛拠点全てが城であり、城郭と言われるのだと私は理解しているわけで。つまり土塁と堀だけしか残ってなくても、それは城址であり城跡なわけですよ。

なので天守がないからって城がないとか言われると納得行かないし、めっちゃあるじゃん!って言いたくなる。

そもそも史跡なんか現存していないほうが多いわけで、歴史好きな人は現存してたら万々歳、現存していなくても往時を思い浮かべるだけで万歳なわけですよ。目に見えるものだけに囚われない!!でも数々のファクトから、過去の風景を思い描く!それが歴史ファンの醍醐味なんだ。知らんけど。

なので城がないとか言わないでくれよ!

ほんじゃーねー

城攻め:首里城

首里は琉球王国の首都であり、琉球王の居城である。

歴史的価値が非常に高い城であることは間違いないが、城址としてはこれまた歴史的な背景から、他のグスクと比較してしまうと(あくまで城址としては)劣ってしまう部分もある。戦災と琉球大学の建設によって遺構の多くが破壊されてしまったからだ。どちらも熾烈を極めた沖縄戦の影響であると言えよう。

沖縄本島の南側は戦災の傷跡を未だ多く残しており、首里城もその一つであることを認識したうえで巡ってみると、また異なる見え方ができるかもしれないし、そうでもないかもしれない。

ダラダラと書いてしまったが、今の首里城はかつての首里城の姿ではではないこと、大半が綿密な研究調査の結果として往時の姿を復元したものであることを認識したうえで、巡るべきではないだろうか。

首里城の特色の一つとしては、日本風に言えば江戸末期の完成された切り込みハギになっている点である。加工のしやすい石灰岩を用いた結果なのだろう。調べてみると今帰仁城や勝連城で用いられていた石灰岩とはその質が異なるものらしい。それが石積みの違いとして現れているのかもしれない。琉球でも南方で採掘される琉球石灰岩は、より加工がしやすいものだそうだ。

門は双璧を持つ門とアーチ門とに分類される。双璧門のほうが技法として古く、アーチ門は新しい。時代の新旧を知ることができるポイントでもある。

正殿からは、琉球王国と中国との結びつきの強さを学ぶことができる。朝貢を行っていた経緯もあり、宗主国は中国だったという見方もできる。1609年に薩摩によって侵略を受け、以後は薩摩藩に服属。明治になってから日本国に併合されるに至った。

日本そのものもそうだが、文化面において琉球王国が受けた大陸からの影響は大きい。

城攻め:座喜味城

座間味ではない、座喜味である。沖縄を車でぐるぐると巡って、意外と似たような、いや似てないような、そんな地名が多いのだなと気づく。

公益社団法人日本城郭協会により、座喜味城は勝連城とともに続日本100名城に認定されている。続、といっても100名城に認定されている中城や今帰仁城に劣らない素晴らしい城址である。その遺構の美しさは、完全復元された首里城をも凌ぐものである。

このグスクの見どころは見事なアーチ門だが、全体的に非常に整備が行き届いており、なにより美しいのだ。勝連城が質実剛健ならば、座喜味城は可憐な乙女とでも言うべきか。主郭には建造物の跡として礎石が残されている。このグスクでは、城壁の一部に登ることができる。柵などは設置されていないため多少足元に注意が必要だが、柵がないということは同時に視界を遮るものがない、ということでもある。見晴らしが良い。

なお座喜味城には沖縄戦あたりに日本軍の高射砲が設置されたり、戦後は米軍に接収され、レーダー基地になったりもしたそうだ。米軍のレーダー基地設置時に一部の城壁が破壊されたことは残念だが、その後復元されている。

なお私個人としては、かつての城跡がそのまま軍事施設として利用されることに対してなんとも感慨深いものがある。少なくとも県庁が建ったり学校の校舎が建ったり、動物園になったりしている城址よりは、本来あるべき姿を維持しているのではないか、という意味で感慨深いのだ。別に和歌山城や小田原城、小諸城、上田城その他諸々をDisっているわけではない。

城攻め:今帰仁城

今帰仁城は世界遺産でもあり、日本100名城でもある。

さて、今帰仁という文字を見て、読める方はどれほどいるのだろうか。

馴染みのない名前かもしれないが、今帰仁村はファミリー層に大人気な美ら海水族館や、カップル層に大人気な古宇利島にほど近い村である。村といっても人口は9500人弱いる。面積は約40キロ平方メートル。村の花はハイビスカス。

なお、今帰仁と書いて「なきじん」と読む。ここまで読みにくかったら私としては大成功。

古代の琉球は、三勢力にその支配が分かれていた。三勢力とは「北山」「中山」「南山」のことで、後世ではこれを「三山時代」と呼んでいる。いわば琉球三国志である。超かっこいい。

今帰仁城は前述の三山のうち、北山王国の王の居城だった城である。北山は中国との朝貢貿易によって潤っていたそうだが、1416年に中山王国の尚巴志王に滅ぼされている。なお尚巴志王は琉球王国を成立した初代の琉球王国王。

今帰仁城は広角でないと全景を治められないほどの巨城で、沖縄県内最大のグスクである。当然のごとく山城であり、主郭からの眺めは非常に良い。

そしてこの城も勝連城と同様に後ろ堅固である。実に攻めたくない城だが、広大ゆえに防御にも多くの兵を裂かなければならないのもまた事実かなと。弓兵の配置には困ったのではないかと推測する。

今帰仁に訪れる機会があれば、ぜひ訪れてもらいたい。そして今帰仁は非常にのどかな村でもあるので、海側のリゾートホテルではなく、山あいのゲストハウスなどに宿泊して、人工の光の少ない場所で夜空を眺めることをお薦めしたい。まあ私の場合は曇っていて何も見えなかったのだが。

100名城はこれで残り16城。

城攻め:勝連城

一昨日の話なので時系列的にはぐちゃぐちゃだが、気にせずに書いて行く。

勝連城。続日本100名城に認定されている城である。日本城郭協会によれば、続日本100名城スタンプラリーは来年2018年4月6日〜とのことであるため現時点ではスタンプを押すことはできない。ゆえに私はもう一度来ることが確定している城の一つなのだ。

勝連城はさながら西洋の要塞のような風貌である。

この日は天気が良かったため、一番かっこよく見える角度かつ日照を考慮した図が上記。iPhoneのカメラは下手なコンデジよりも高性能。なにより光と陰をよく描写してくれる。描写する力はSIGMAのDPシリーズには及ばないが、嫌いではないのでカメラとiPhoneとで構図を変えて写真を二回以上撮る羽目になっている。

勝連城に話を戻すが、アーチ状の石垣の美しさは他のグスク以上だと思う。小高い山の上にあるため、分類としては山城。

現存する縄張りはシンプルなもので郭は三つ。いわゆる大手門、グスクでは正門と呼ばれているようだが、後ろ堅固にして門は大手のみ。ゆえに攻め手は大手からしか攻めることができない。

しかも大手側は湿地帯だったようで、大軍で攻めるのが難しかったようだ。石田三成が攻め落とせなかった忍城もそうだったように、湿地帯に築かれた城は、大軍に対して寡兵で籠城するのに有利である。それに農地として食料も確保しやすい。

だが、このグスクの城主であった阿麻和利は、琉球王府に対するクーデターを起こすも返り討ちに遭い、このグスクも落城したらしい。

らしい、というのには理由があって、城趾に戦災の跡が見られず、はっきり分かっていることが少ないのである。

琉球も内地と同じく歴史が深いが、内地ほどの文献は残されていないため、過去について客観性を持たせて判断するのが難しいということなのだろう。

城攻め:中城城

日本100名城の城攻めも終盤にかかってきており、今回紹介する中城城の達成を含めれば、残すところあと17城となった。

さて、沖縄には100名城は3つほどある。観光スポットとして有名な「首里城」そして今回攻めた「中城城(なかぐすくじょう)」、もう一つは「今帰仁城」。他には続日本100名城に認定されている城として「勝連城」「座喜味城」の2つがある。この5城はどれも琉球王国のグスクとして、世界遺産登録されている。

前述の中城城という名前で「おかしくね?」と気づいた貴方は素晴らしい。琉球では城のことを「グスク」と表現する。ゆえに中城(なかぐすく)だけで完結した名前であるはずなのだ。

では何故中城ではなく中城城なのか?島言葉と標準語が混ざりあったと書かれている書物もあるが、どうもよくわからない。

まず中城城の正門にたどり着く前に目につくのは、廃墟マニア界では有名な廃墟、「中城高原ホテル」。私有地につき立ち入ることはできないが、遠景としてその威容を眺めることができる。城ではないが、同じ廃墟という意味では城みたいなもの。

中城正門。見た瞬間にExcellent!と叫びたくなる。日本人なのに。

このアーチ門は琉球王国のグスクにしか存在しないもの。そもそも日本本島とは使われている石の質そのものが異なるのだ。沖縄のグスクではその地質から石灰岩が用いられている。石灰岩は加工しやすく、アーチ型に加工することが容易なのだ。たぶん。

郭の配置から見て中城が広大であることがわかる。他のグスクに比べても郭の数が多く、多層防御を実現している。

見るべきはアーチ状の見事な石垣と門。この2つは琉球王国のグスク共通のものだが、特に中城では左右対称に近い主郭の石垣が見どころになるだろう。

城攻め:岡崎城

全然書いてなかったけれど城攻めは地味〜に、そして順調に進んでいる。ぼくのながいなつやすみのため、城攻めを再開したい。ということで52城目は岡崎城。乙川、矢作川を活かした立地。水攻めに弱いとか言わないように。

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神君家康公の産まれた場所として、たぶん100名城認定かなと。家康の産湯の井戸がある。他にも井戸はあったんだとおもうけれどね。

image特徴的なのは曲線を描く空堀。

城址あるあるだが、今は岡崎公園として整備されている。本丸には龍城神社、そして鉄筋コンクリート造の天守。

武将隊もいたけれど、ここの武将隊は標準語なのでなりきり度は低い。別にいいけど。