自由であって然るべきなんだ

良い年して変なことを言いたくなるもんですが、自分の人生とやらを振り返ってみれば、結局パンクロックというものとは切り離せないもので、なんだかんだパンクロックでしかないなと思うんですよ。パンクでもあり、ロックなんですよ。

そもそもパンクロックってなんだという話なんですが、私の恩師たるカート・コバーン師はこう言いました。

「パンク・ロックの意味するものは、自由であって然るべきなんだ。自分の好みのものを片っ端から好きになって、受け入れる。何でも好きなものを、好きなだけ下手に演奏する。いいもので、情熱が感じられればそれでいいのさ。」

自由。これに尽きるわけですよ。

じゃあ自由ってなんだといえば、それは人それぞれですね。

私の場合の自由とは、誰からの指示も命令も受けず、自らの意思を持って、自らが行いたいことを実現する。これに尽きるわけですが、今それが十二分に実現できているので、20年前の自分から考えてみれば奇跡的だなとも思うし、自分が望んだ通りになっているなとも思う。たぶん人生とは、自ら望んだ方向にしか進まないのだ。

男子たるもの、ずっと厨二病の延長線みたいなものでしょうね。だから、未だ精神的に成長しているとも思ってないんですが、それでもなお日々学び続け、実践し続けた結果として今の自分がいて、もはや「呉の阿蒙」ではないなと思うんですが、それでもなお数年後からみれば、やはり厨二病だなとか思えるわけですよ。

何が言いたいかと言えば、やりたいことをやるべきです。誰しも自らの夢を叶える権利があるわけです。その上で、機会をモノにする必要があるんです。

幸運とは、機会を機会と的確に捉えられる能力ですよ。決して機会を逃さないように、がんばりましょう。

noodlesワンマンライブ@下北沢Que

2022.12.11、下北沢のQueで行われたnoodlesのワンマンライブに行ってきた。Queで行われたnoodlesのワンマンには、少し前にも行った覚えがあるけれど、あれはいつのことだったろうか。まだドラムがAyumiさんだった頃だ。

今となってはnoodlesというバンドも、オリジナルメンバーはYokoさん、Ikunoさんだけになっている。以前はちゃん付けが妥当に思えたメンバー名も、もはや「ちゃん」と呼ぶのには色んな意味で厳しいものがあり、敬称として「さん」と書いているが、これはこれで違和感がある。気にしないでおこう。

長年聴いてきたという背景もあって、4人の頃の「ヌードルス」と比較してしまう。かつて私も3ピースのバンドというものをやっていたが、ギターが2本か1本かで当然ながら音圧も違うし、表現できる内容も異なってくるが、1本の場合はその1本の人の音の作り方やら、総じて技術力やらが前面に出てしまうと思う。

そういう意味では、今のnoodlesは、かつてのヌードルスとは別物で、衰えたと言って仕舞えば衰えている。また、ドラムに至っても、Ayumiさんのあのパワフルなドラムが無くなった分だけ、だいぶ寂しいものがある。

そしてYokoち・・Yokoさんの声も、以前に比べればだいぶ声量がなくなったように思えるし、艶感が消えてしまった。

なぜかIkunoさんだけずっと変わっていないように思えるが、どのバンドにも、ベースというポジションの人には、その点で共通する何かがあるような気がしていて、それがベースなんだということで納得感がある。

ここまでみると衰えただのなんだの批判的なことを書いているように見えてしまうが、全くそういうことが言いたいわけではない。

彼女らは、もう何十年もバンドを続けているのだ。普通に歳をとって、歳相応ながらにも今もまだかっこいい音楽を続けているnoodlesは、ずっとかっこいいのだ。聴衆側も年老いていく中で、懐古主義に若干なりながらも、やはり普遍的なかっこよさに惹かれる部分というものがあるからこそ、聴きにくるのであるし、また聴きに行きたいと思うし、安心する部分があるのだ。

だからこれからもずっと活動を続けてほしいなと思っている。聴く側もだいぶ年老いたので、仮に金銭的・経済的なサポートが必要になったとしても、そのあたりは余裕で賄えるんじゃないかとか、うちの会社がスポンサーになってライブとかしてもらえるんだろうかとか、変な邪推すらし始める感じもあるが、バンドをやっていた人ならわかる通り、バンドには、ミュージシャンには当然ながらプライドというものもあるので、これからも、ずっと、ほんの少しだけ遠い存在であり続けるだろうし、あり続けてもらいたいものだなと。

当日の曲について?それはもうメロウメタリカ一択ですね。

週刊アイアンマン、完成

完成した。人生初デアゴ。

眠い中で一気に作った関係もあり、そもそも作り方が幾分かわるいので、ポージングすら危うい部分がある。写真撮る時くらいちゃんとすればよかったが、なんだか傾いてる。

いや、そんなことは気にするんじゃあないッ

全体的にその作り方はおかしいでしょう、という回が何回かあった。物理的に無理ゲーな箇所もあって、その回だけはYouTubeを観て先人の知恵を借りた。そして先人は素晴らしかった。

そもそもデアゴスティーニ版週刊アイアンマンはその造形の微妙さから、ファンからの評価はあまり高いものではなかった。肩がスカスカだとか、肩がスカスカじゃんとか、マジで肩透かしじゃんとかである。

それでも作ることになったのは、半分はノリで始めたものをクリアしたいという、それだけの気持ちであり、残り半分は一応楽しみにしてくれていた息子のためであった。

息子はそこその喜んでくれたが、彼のアイアンマン熱は以前より冷めていて、直近ではドラゴンボール熱に変わっている。

もし週刊ドラゴンボールが出たら買わざるを得ない。なんならもう出してください。スカウター作るとかどう?

大ベルセルク展に行ってきた(2回目)

大ベルセルク展@銀座松屋に行ってきた。池袋のサンシャインで行われたベルセルク展も含めれば二回目の参加。相変わらずの盛況ぶりで、グッズが飛ぶように売れていたのが印象的。

前回サンシャイン会場では、オペレーション側の問題もあって、グッズ売り場にすら立ち入ることができなかった。オフィス用に受注生産となるキャラファイングラフを購入しようと思っていたので、それを買わずにはいられなかったのだった。んで今回は購入した。到着は年明けになるらしい。

三浦健太郎さんの画力は凄まじく、漫画というものはこれほどまでに原画が美しいものなのか、と本当に心が震わされるし、漫画でありながらも、もはやその原画は絵画でもあった。兼ねてよりその絵の繊細さには、ここまで細かく描くなんて・・と思っていたものだが、原画をみれば、それが全身全霊で描いてくれていたのだということがよくわかる。

私は絵については素人だが、ベルセルクはその描写の繊細さ、感情を移入せずにはいられない個々のキャラクターの心理描写、まさに剣風を感じさせてくれる戦闘描写、オリジナリティなど、言い尽くせない良さがある。

そしてベルセルクは、私にとっては、フリーターから会社勤めを始め、何社も渡り歩き、そして起業して・・という、私の黄金時代そのものを一緒に歩いてきた仲だった。

深夜にバイトが終わり、ふとつけたテレビで観た独特の雰囲気の中世風なアニメ。何気なく観続けていたらどんどん引き込まれていき、そのアニメの原作が観たいということで、深夜にバイトが終わった後で、真冬に20分ほど歩いて24時間営業のTSUTAYAに行き、単行本を少しづつ購入する。それが本当に楽しみだったことを思い出す。

三浦先生(あえて先生と書く)がお亡くなりになられたことは、私にとっての黄金時代を支えてくれていた人が亡くなったことと同義であった。本当に悔やまれてならない。

ご冥福をお祈りいたします。

Airpods Proがキンキン言うようになったので修理に出した話

AirPods Proを装着しながら歩いていると、環境音を拾ってノイズキャンセリングをしている関係なのか、ヒスノイズみたいなキンキンした音が入るようになってしまった。ついでにBluetooth通信が不安定だったり挙動が怪しいので、genius barを予約して、一度調査してもらうことにした。

geniusっぽいジーニアスが応対してくれたのだが、現象を伝えると検査機で調査する、調査に10分ほどを要するとのことでお願いした。機械的なチェックを望んでいたので、期待通りである。

結果、左耳側で雑音エラー、両耳の可聴周波数テストでエラー、クオリティプログラムに準ずる問題とのことで、無償交換の対象になった。

ので、以下のような症状の方は一度ジーニアスに相談してみましょう。

  1. 歩いているときに両耳からキンキンと鳴る音が入る
  2. 左耳のイヤホンを触るとザザザッと音が入る
  3. 通話相手から音声が途切れたり、ノイズが入ってると言われる

上記3についてはAirPods側の問題ではなく、Bluetooth通信環境の問題や、通信先のPCのパフォーマンスに依存する問題かもしれない。

ちなみに修理する前に新規に買い直したので、AirPods Proが2つになったー

生殺与奪の権を、他人に委ねるな

起業して3年目の夏が、終わろうとしている。

事業は順風満帆この上なく、3年連続で増収増益という結果に終わりそうである。

私個人の手腕というよりは、時代の趨勢が大きく味方をしているにすぎない。何をやるにしても基本的にはサボることが大好きな私は、日々目の前にあるタスクをヒィヒィ言いながら、こなし続けているだけだ。その結果が増収増益に落ち着いているだけ。

今は良くても来季がどうなるのかはよくわからないし、来月すらどうなるのかもいまいちわかっていない部分さえある。

no plan, no idea & no future.

それでもなお、目の前に山積みになっていることをぐぬぬぐぬぬと言いながら着実にクリアしていくということは、おそらく間違ってはいないだろう。一歩でも前に進むことが重要であり、結果はそこからしか生まれない。

そして、未来のことがわからない、というのは、本質的には誰しも同じなんだと思う。明日、来月、例年を変わらず送れるかだなんて、誰にもわからないことであるし、もしわかっているつもりならば、それは勘違いに違いない。

でも、わからない未来にどのように立ち向かうかについては、わからないことではなく、自分で決められることでもある。

その上で、起業するということは、どういうことかといえば、わからない未来、行き先が見えない道を選ぶとき、その道を自分から選んでいくことに他ならない。

それは即ち、「生殺与奪の権を他人に委ねるな」という、鬼滅の刃に登場する冨岡義勇の名言と同義であると思っている。

未来とは、運命とは与えられるものではなく、自ら切り拓いていくものなのだ。

その実感を持てるようになるまで、随分と時間がかかったようにも思うし、最初からわかっていたことのようにも思う。

函館と私

立待岬

函館に行ってきた。諸々忙しいので日帰りである。

子供の頃は毎年お盆の時期になると函館に行き、お墓参りをしていた。お墓参りといっても会ったことのないご先祖様のお墓なのだが、夏の風物詩の一つとして楽しんでいた。

大人になり毎年行くこともなくなり、今回は6年ぶりの訪問だった。6年もあれば街は変わるもので、もう棒ニデパートは閉店しているし、駅の周りはずいぶんと綺麗になっているし、電動自転車のレンタサイクルもあった。

そして墓参りの際に供花を購入していたお花屋さんは、閉店していた。なんとなくそんな気がしていたので、別のところで買って行って良かった。

西波止場や金森倉庫の界隈の賑やかさも、ハイシーズンの割にはコロナ禍の影響で外国人がほぼいないため、閑散とした様子さえあった。観光都市である函館にとっては、コロナウイルスによる影響はかなり大きいものと思われる。

街の見え方、景色の見え方は、年齢を重ねるごとに変わってくるものである。街そのもの、景色そのもの、それぞれの移り変わりとは異なり、目で見て、風を感じて得られる情報そのものが全く変わってくる。

かつて立待岬はただの岬でしかなかったが、今見てみればパノラマの広がる眺めの良い場所であり、台場として使用されるのに適した土地でもあるとも思うし、純粋に美しい景観なのだ。

見える景色は、これからも何度も変わるのだろう。その時、刹那を生きるのだ。

45歳でセカンドキャリアを考えるのでは、もう遅い

ブログなんてものがあったなーというのを、もう何回繰り返しているだろうか。毎回「ブログの存在を忘れてた」とか書いている気はする。忘れていたというよりは、単に書くのが面倒なだけだろう。

45歳でセカンドキャリアを考える的な記事を読んだ。

実際45でセカンドキャリアを考える人は、どの程度いるんだろうか。

定年してからセカンドキャリアを考える、みたいな人もいるが、私としては全く持って遅い気がする。そして、そういうおじさんの大半は転職経験もほとんどなく、語れることが特定の企業での経験だけだったりするので、あまり実務的な価値がない。

はっきり言えば、柔軟性に欠けた思考と経験と能力で、セカンドキャリアなど到底築けないのだ。

となるといつ頃が良いのだろう、という点では、45歳は妥当かもしれない。でも45で既に自身の力で顧客を開拓できたり、実務的な価値を持って対価を得られる人はとっくに起業している。だからそんな人はセカンドキャリアを考えるのではなく、セカンドキャリアを実現している。

その前提では、セカンドキャリアを実現していない45歳ができることは、実際少ないのかもしれないが、むしろ同世代でセカンドキャリアを実現している人の補佐に回ることで、これまでにはない道筋を作ることはできるかもしれない。

ということで、私の補佐に回ってくれる方を募集しています。どうぞよろしくお願いいたします。

2021年11月11日に買ったもの

横山光輝の水滸伝6巻セット

中学校の頃に友人宅で読んだっきりなのだけれど、光栄の水滸伝をやっていた経緯もあって、登場人物たちのことはよく覚えてますね。天コウ星三十六星な武将はだいたいかっこいいという。下は知らん。北方謙三の書いた小説が有名ですけれど、ここはあえて横山光輝の漫画のほうを読みたいわけです。なお、水滸伝はあの三国志よりも前の連載作品ですぇ。

NIRVANA Nevermind 30th Anniversary Edition

Nevermind が1991年にリリースされてから早30年ということで、30年記念版がリリースされるわけです。知ってたけど予約していなかったという。25周年でも出していたので、これはもう完全にそういう商法でしかないものの、ファンは買ってしまうんですね。しかもファンも30年経てば、キッズからいい歳のおっさんになっていて金を持っているという。なんだかかつてThe Beatles界隈の似たような商品がやたら売られていた流れに似てなくはないねー。買っちゃうんですよ。

私は静かに暮らしいたい

何度目か忘れたくらいに、ブログの存在を忘れていた。こんにちわ。

最近もそれなりに楽しく暮らしているのだけれど、気になることは、同年代の友人知人たちが、やたらとクダを巻きはじめたり、評論的になったり、吐き捨てるようなセリフを言うことが増えたように見受けられる点である。

あれ?君はそんな発言するタイプ…でしたっけ?というのが明らかに増えたのだ。

例えばSNSを通じての社会情勢に対するコメントを行うのは良いとして、誰と議論したいのかよくわからない批判、第三者だからこそ言える評論は実によく目につく。そして、特定の誰かが行っていることを嘲笑しつつ、無能呼ばわりすることも増えている。

これがいわゆるミッドライフクライシス、中年の危機ってやつなのかしら?それとも、コロナ禍によるストレスフルな生活環境の影響によるものなのかな?あるいは飲み会がなくなったことにより、愚痴の吐き口がなくなったことによるもの?

と疑問に思うことはなくはないのだけれど、自分にできることは、同じようなタイプにならないことだなぁと。

そしてそれらを目にするSNSという場は、あまりよろしくない環境な気もするので、当面避けて通ろうかなと思います。かしこ